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 廊下を歩きながらふと真樹が言う。

「みんな、多分…。
 向いてるとこ、少し違かったんだな」

 と。

「あまちゃん、」
「…ちょっとだけ…。
 まぁこんな俺じゃダメでも、いっかぁって、思ってた。少しの我慢って、何かの勇気かなとか、あまったれてた」
「…そりゃ、そうだけど」
「多分さ、誰のことも俺、どうだっていいんだ。
 そ、どうだっていいやぁ」
「なんでそうなった、真樹」

 ナトリが声を掛け。
 前を行く真樹がピタッと立ち止まって震えた。拳すら、小さく。
 啜るような声にならない空気が流れて。

「誰のことも俺は、見ていなかったんだ」
「…真樹、」
「気付かない、昔から、何も変わらない。
結局、自分のせいで崩落を見るなんて、人でなしどころか、怠惰だ」
「どうしてそんなに自分ばっか、攻めるのあまちゃん、」
「対人無理だから。殻に閉じ籠って引きこもりだよげんちゃん」
「そんなこと」
「げんちゃん。
 真樹には、真樹の道徳が、許せない物があるんだ」
「文杜さん?」
「俺にはわかる気がするよ。自分に苛まれ続けるには、それなりに体力を使う」

 優しすぎる目で言う切れ長のそれには、確かに、どこか寂しい、遠い何かを見る気がして。

「俺昔家を自分で燃やしたことあんだ、げんちゃん。だからね、サイトウさん、好きになれないんだどうしても。
 それを守りたい真樹の気持ちは残念ながらわかるような気が、自分を捨てられる根性って、案外少数派で自虐的だよね、でも似てるじゃん。ねぇ、真樹」
「文杜、もういいよ…帰ろう」

 どうして。
 そんなにしょんぼりするのか。
 繋ぎ止めたい。
 その想いはあって、「次、明後日にしようよスタ練!」と弦次は声を掛けるが、

 文杜と真樹は先に帰宅してしまった。

「どうしよう、ナトリさん」
「…ちょっと荷が重いよな、げんちゃん。ごめん。だが俺も…。
 全員わかるから誰にも入る勇気がなくてな」

 ナトリが泣きそうに言うのが珍しく。
 長身が小さな背中で帰って行く。

 やるせなく、弦次には何をすることも出来なかった。

 出来るわけがない。
 自分はそんな苦労をしていないのだと知った。
 誰一人言葉を見つけられずにいた。

 はたまた救護室では同じような、沈黙で。

「あの…オカモト、さんでしたっけ」

 わりとぐったりと椅子に座った一之江は昴に、「まぁそれでいいや」とめんどくさそうに返す。

「みんなとは、どういう…」
「んー…主治医、つぅか…」
「…兄貴だよね、…陽介っ」

 寝ていたサイトウ、起きて。

「あっ」
「いやぁ…寝たフリしながら寝ないのキッツいやつかましたなお前ぇ…」
「はろーぉ、雇い主」

 手を上げ挨拶。サイトウ、不機嫌そうに一之江を睨むのが最早ヤンキーチックだと昴には思えた。

「…飛び飛びなんだけどあいつらどした」
「ま、巣立ちかな」
「…あぁそう。君がそう言うなら多分ろくでもないよねぇ、陽介」
「ろくでもないのはお前じゃないかよっちゃん。
 チビわりとショックだったみたいだよ、お前のガキネタ」
「…まぁ、そうかもね」

 なんだかなぁ。
 みんなホント。
 言葉が足りないなぁと、昴は思う。

「…サイトウさん、わりとあんたも、ろくでもないっすね」
「まぁね。だからこそ、」
「でもなぁ、まぁ、あいつら昔もあったよな、こんなこと。
 多分勝手に底意地見せんのがあいつらなんだよな。成長しねぇな、俺たちも、よっちゃん」

 まるで言い聞かせるかのように言う一之江は、笑って、少し咳き込んだ。
 確かにこの人、わりと体調が悪いのかもしれないな。

「…でも言っとかないとな死ぬ前に。
 よっちゃん、あいつらで夢観ようなんて、センスないよ。
 いいよ日本で。程よく泥酔出来れば。俺は一生、メチレンブルーで」
「…んなこと言うなよ、少しは」
「わりと居心地いいんだよ。病的で。ある程度のしがらみがないと俺、死にたくなるんだ。だからあいつの気持ちはまぁ、わかるんだよ。だからお前に託したんだよ、よっちゃん」
「…あそう」
「けど生命保持ってやつだろ。いざってときは自分からメチレンブルーも出て行った、お前の川からも出て行こうとする。なんなんだろうね。けど辛いよな、多分」

 充分じゃないかと思える。
 充分この人、人の愛を、受け入れるんだと、確かにこれは危うい陶酔、病的だ。昴はそう、感じたのだった。

 本当は全員どこかで一つ気付いているのに、太刀打ち出来ないでいる程に、絡み合って関わってきてしまったのだと誰も気付けないでいるのかもしれない。

 夜空の下。

 文杜と真樹は無言のままタクシーを拾い、2人で暮らしていた頃の、中野にある文杜のアパートまで向かう。

 その中で少しだけした会話は。

「覚えてる?文杜」
「…なに」
「…願い事の、話」

 そう言われて思い出した文杜は。

「真樹」
「なに」
「俺も多分同じこと考えてたんだ」

 ずっと。

「ずっと好きだったんだよ、真樹」

 だから。
 真樹はそれでも笑った。

「知ってた」

 そうか。
 じゃ、多分合ってるんだ。あの願い事の話って。流石にそれは。

「ざけんな、…人でなし、」

 傷付かないように。
 どうしてそれが傷付ける言葉なのか。
 多分、真樹だからだ。そう思ったことがもう、あぁ、俺ってやっぱりそうだった。

 人でなしレベルでのめり込んだ。ジャズベースに、どうやらと、皮肉にも恍惚があった。

 「そうだね」と言う真樹に一言だけいまは言いたい。

「泣く前には、考えてよ。自分のこと。ダメなら、俺のことでいいから」

 いつか誰かに言った一言。
 これずっと、多分言いたかった。

 やっぱり返事はなかった。

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