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 淀んだ灰色の空が広がっていた、あの日まで。

 空から、まるで降ってきたかのように落ちてきた君の背中に俺は感動した。あの時から毎日空は、青空のような気がしてならなくて。

 ボスッと音を立てて目の前に降ってきた君は、可愛らしい、肩くらいまでの柔らかそうなストレートヘアー。それが少し風に靡いて、というか乱れた感があって。

「痛っ、」

 声も自分より高い、少年期の柔らかい感じで。
 制服のブレザーのネクタイを緩め、強打したのだろう腰を擦り、睨むように今落ちてきた窓を見上げると歯を食い縛って、その窓から下を覗き込んだ茶色い短髪の、身を乗り出してる背が高そうな男子を見上げているが、君は笑った気がした。

「おい!い、生きて、」
「てめ、クソ、ハゲぇ!おまっ、降りて来ぃや!んなとこ!ぶっ飛ばしたる!」

 実際無理だろう。多分、喋るのがやっとなくせに半身起こしてあんなに叫んじゃってさ。

「…、待っとけ、今行く、死んだらぶっ飛ばすよ!チビ!」

 心配そうな顔して茶髪野郎はたどたどしい日本語で返し、踵を返すのが見えた。

 それを見るや降ってきた小さな君は、ぱたんと後ろに倒れ、「ははっ、」と笑う。

「すげっ、ごほっ、あんでここマットあるん?あー動けんばい、おに、さん方、悪いね、ぶっ飛ばさんとい、てね」

 そのマットは。
 番張ってた先輩のちょっとしたアレ用にたまたま敷いてあったんだよ、体育館裏、誰も通らないような場所だから。そんなつまんねぇ、場所だったんだよ。

 なんてエキセントリック。
 そして空を眺める君はたった一言、「空、狭いなぁ」そして、痛かったのか咳込んで。

 それが文杜にとって。
 なんて排他的で、そして。

「…君、大丈夫かい?」

 興味を持った。
 ダルそうに自分を見つめた空虚なまでに綺麗な、例えるならそう、ビー玉のような茶色い瞳に思わず魅入ってしまって。

 それからにっこり、痛そうだが笑ったその笑顔の仕組みがわからなかったけど。

「君よか多分、あぃじょーぶ」

 そうか。
 笑ってしまった。久しぶりに。

 そして茶髪野郎が来て、なんだかんだで無理矢理おぶってやったりしているのを見て、彼らに興味を持ってつるんでいった。

 チビは骨折していたらしい。
 チビの見舞いには茶髪野郎と一緒に通った。どうやら彼らはその喧嘩をしてみて、仲良くなれたらしい。

 気付けばずっと、あれから高校まで、ずっと。

「…みと、朝だって」

 声がした。
 あれより低い声で。

「…ん…」
「…いから、がっこ」

 薄目を開ければあの時と大差ない、少しだけ顔付きがしゅっとして、まぁ可愛い系から美人系になったような真樹が凄く近くにいて。
 というか抱きついてたようで、自分が。

 鎖骨を欠伸のような、微妙な寝起きの涙で濡らしてしまったようで。

 それに文杜は急激に目が覚めた。そして泣きそうなくらい愛しくて堪らなくなってしまい、思わず、最早本能的に、というか性的に抱き締め、真樹の鎖骨の涙を舐めとるように舌を這わせた。半勃ちで。

「う、ちょっ、ばかぁ、」

 ああ、なんて可愛いの真樹。

 「あぁぅ、やめ、」なんて言っちゃってもう大変どんどん元気にとか調子に乗って寝ぼけたふりしてまぁ、昨日の情緒不安定な俺もあるしいいよねとか文杜が思った次の瞬間。

「い゛っ、」

 文杜の脳天に稲妻のような衝撃が走った。恐る恐る真樹の顔を見れば、涙目で手首が口元に見える。

 あこれ肘打ちされたな。

「いったぁ…ぃ」
「んの、バカヤンキー、ぶっ殺すぉ!もう!あんなん朝から!」
「痛いよ真樹ちゃん」
「おいハゲぇ!てめ、助けろぁこん、使えねーなクソ台湾ん!ちょ、こいつ剥がして!持ってって!」

 真樹はそのままキッチンに向かって叫んだ。しかし、

「お前も悪い。この鈍感、死んで治してこい。お前マジメに罪すぎるぞクソチビぃ。
そこのクソ猿ヤンキー!てめぇ早く風呂入って学校準備しろバーカ!立てねぇならおぶるぞバカ猫背!」

 ナトリの罵りと料理してる音が響いた。
 どうやら日常に戻ったらしかった、漸く。

 なんだかそれも嬉しくなった文杜は、それはそれでにやけてしまい、「はい、はぁい!」と返事をして飛び上がるように起き、風呂場に消えて行った。
 一言、「おはよう」とだけ言って。

 その姿に少なからず二人とも、まぁ、一息吐けた。

「はー、なんか日常きたー」
「なにぃ?」
「なんでもねぇよクソハゲ」
「真樹ぃ、」
「はぁい!」

 起き上がった。
 貧血に真樹は硬直した。それもナトリには慣れた光景なので取り敢えずキッチンから顔を出し、「弁当はいるのか今日は」と聞いた。

「うん。きょーはお前らと飯食う」
「え?オカモト先生の見舞いは?」
「西東氏が行くっしょ。きょーはね、視聴覚室にいる」
「なんで」
「昨日西東氏に言われた。大体はライブプレイを観ろって。だから3本くらい観ようかなって」

 髪を掻き上げるようにくしゃっと押さえながらも真樹は笑った。どうやら貧血、というか低血圧で頭が痛いらしい。
 倦怠感や虚無感はないのかもしれない。それはいいことだ。むしろどうやら気持ちは、穏やかになりつつあるようで。

 すげぇなあの女医。オカモトも手名付けていたし何より真樹も然り気無くなついていたし。これはしばらく安泰か。

「真樹」
「ん?」
「俺も後で、そうだな、今度の休みでもそれ観ようかな。つーか何時間?」
「2?3?」
「バカなのお前さくっと。はぁ?それ3本見るの?一人で?視聴覚室でぇ?」
「え?うん」
「寝ちゃうだろ。1本にして素直に練習したら?」
「いやアーティスト代える。
 ほら、練習してたやつはさ、4人のなの。けどね、西東氏的には3人のやつがゴールなの」
「は?」
「ブランキーかミッシェルか、俺は今チバさんスタンスなの!」

 何言ってるかまったくわからないこと言い出した。これ薬のせい?なに?バカだから?多分後者だ。

 でも自分をチバさんとか言ってしまう真樹様に思わず「ふっ、マジか真樹がぁ?」と、ナトリが吹き出してしまったのは言うまでもない。

「あんだよっ」
「ち、チバさんって、おま、素人が言って良いと」
「わかっとるばい死ね台湾!あれになるの!ムリだけど!あーもーバカハゲタイコに話してもね、わかんないからいいです!ギターってそーゆーことなんだよ!」
「だからタイコ言うなクソチビぃ!」

 ふん、と真樹はそっぽ向いて不貞腐れてしまった。

 風呂から出た文杜はその事情に「何朝から。血気盛んじゃね?」とか言ってくるので、真樹は取り敢えず自分も風呂に入ろうとすれ違い様に文杜を見上げ、「なっ!」と突然だけ同意を求めて風呂場に消えた。

「…どしたのあれ。からかったのナトリ」
「チバさんになるんだってよ」
「へぇ」

 つまらなそうに文杜は返事して座り、「ご飯ー」とせがんだ。

 俺は母親かよ。そんな自嘲もまぁ、日常だ。

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