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ポロン…
ロン…
音がした。この音は、学校の物置みたいな教室に置かれているピアノの音だ。
ポロン…
ロンッ…
壊れたピアノの音。僕はその物置みたいな部室の前に立ち、ピアノに向かっている人物の小さな背中を思い浮かべた。
彼女はいま、どんな表情でピアノに向かっているのだろうか。それを想像して、僕はとっさに扉を開けた。
音が止んだ。先輩の小さな背中が夕日に照らされている。
「今日は早いですね」
オレンジに映し出された短髪と、振り向いた左目の眼帯に右目元の泣き黒子。先輩は、いつも通り、何も考えていないような空虚に近い表情をしていた。
「さっき来たんだよ」
「そうですか」
それから、僕らの間には沈黙が降りた。
凝縮されたような詰まった空気に息苦しさを覚える。何かを言いたい。けれど何を言えばいいかわからない。
黒いグランドピアノがオレンジの光を放つ。その色はとても、優しいようでいて何も安らかではなかった。
鍵盤に視線を落とした先輩は、左手を一度上に上げ、鍵盤に力一杯叩きつけた。
不協和音が響く。夕日の優しい風景にまったく似合わない、悲痛な叫びのような音。
「あははは」
何度も何度も叩きつけ、音を鳴らしている先輩の背中は、小さくて壊れそうだった。
「先輩、」
欠けた音ばかりに指を叩く。ピアノは鳴らない、僕には先輩の心に溜まった不協和音に聞こえてならない。
「赤塚先輩、」
ふと、先輩は音を鳴らすのを止めた。僕の方へ振り向くと、左手をかざす。
長くて細い指。手首に巻かれた白い包帯。いつか、コンクールのときに誉められた銀賞の手だ。
「指は5本ある」
「はい」
だけど先輩は、何も言わずに静かにその左手を下げた。
ぶら下がった手。ピクリとも動かない。
「せんぱ」
「お母さんがね、小さい頃にね、小さなおもちゃのピアノ買ってきたのー」
無邪気な子供のように言う先輩の、オレンジの顔を
見る勇気がなくて、僕はうつむいてしまった。
「でもねー、機嫌が悪くて投げたら、ミの音だけでなくなったの。
鍵盤ハーモニカって知ってるー?あたしはそれから鍵盤ハーモニカを弾いた」
また、あの不完全な不協和音が響いた。
右手だけの滑るような音の羅列と、左手の不協和音。
先輩は半年前、大きな交通事故に遭った。小さな体は車に巻き込まれ、幸いにも命は助かったが、上半身の左側に障害を残してしまった。
彼女はそれからピアノに向かうだけになってしまった。
また、ピタリと音が止んだ。僕はこの曲のタイトルを知っている。先輩が、嫌いな曲。
彼女にとってピアノとは、何だったのか。
「絵が見たいなぁ」
「…え?」
「高梨の絵。美術部なんだから描きなよ」
「…」
先輩はどうしてこの部に来たんですか。
聞いてみようといつも思うのに、聞けない。聞かなくても、分かっているような気がした。
先輩の鼻唄が聞こえ始めた。亡き王女のための、鼻唄が。
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