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その日俺は、いつも通り彼女を待っていた。

いつも通りなら彼女は稽古が始まる30分前に来て、ピアノに向かっている。

彼女は変わっていて、ピアノにただ向かっているだけなのだ。

彼女の旋律は、言うなれば表情と感性が豊かだ。しかし弾いている本人の表情は、以前として空虚なのである。

俺は、そんな彼女の弾き方が好きだ。音楽に依存し、音楽に執着されている。

だが彼女は、30分前になっても現れなかった。

珍しいこともあるものだ。

そう考えたとき、そういえばお茶を切らしていたなと、日常的なことを思い出した。

まぁ来たら勝手に入って座っているだろう。

そう判断して、外に出たのだ。

買い物から帰ってきてその光景を見て、俺は衝撃を覚えた。

彼女は来ていた。だが、ピアノの横に立って鍵盤をじっと眺めている。

「赤塚さん…」

思わず絶句してしまった。彼女は左手を白い布でぶら下げ、左目を眼帯で覆っていた。

俺のことをちらっと見た彼女は、ふと笑い、鍵盤のミの音だけをポロン、ポロンと鳴らした。

「私はね、先生」

彼女の感情そのままの、空虚な音が連続的にゆっくりと部屋を占拠した。

「小さい頃ママに、ピアノに縛り付けられたの」

音が止んだ。俺を見る彼女の目は、ひどく澄んでいて真っ直ぐだった。

「だから私がピアノを弾くときは、私はそこにいないんだと思ってた」
「君は…」

そうかだから、彼女は30分も、ピアノを前にするのか。

「君はとても」

素直だ。自分に対しても、何に対しても。

「この部屋の外に咲いてる紫陽花、好きでした」

だからこそ、何に対してももう、取り返しがつかないのだと彼女は知っている。

それは、たった18歳の少女には過酷で、抗えない運命の暴挙だ。

それ以上彼女は何も言わなかった。

俺が聴いた最後の旋律は、梅雨の雨のように無機質なミの音だった。

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