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「あぁ、指切れんでよかったですねえ」

 淡々とした口調で岡田の指を眺め、止血する翡翠に岡田は「悪かったにゃぁ」と謝った。

「坊さんが怒っちまった」
「あん人、気が短いんで。こういった自傷もあまり好きではないんです」
「じしょう…」
「違いますか?」
「いや、意味がようわからんくて…」
「なるほど。
 自分を傷つけると書きます。まぁ、それはこの傷の話やけど。
 ヤクザの話をしますと血判など、決死の物以外に何もない、と言えば聞こえはええやろうけど」
「…そっかぁ、あんさんヤクザやもんね」
「昔ね。今は足を洗っているつもりですぜ」
「あ、そっか」

 本当は決死など脅迫でしかないけれど、と皮肉を思うが口にはしない。それほど綺麗に片付けられたものなのかと、やはり皮肉を思う自分は今、心が何故か濁っている。
 いや、何故かなど簡単な理由なのだが、安易なものではないのだと、「はい、どうぞ」と、翡翠は岡田の治療を終える。
 
「…まさか、こんなもんを治療してくれるだなんて」
「寺ですから」
「…ホンマに悪いことをした。ちゃんと国に帰るよ」
「そうしてくださいな」

 最後にちゃんと面を拝めば、岡田は子供のように手当ての傷を眺め疑問そうなのだから、つい慈悲深く眺めてしまったかもしれない。
 そういったことは大抵本人は気付かないもので、本当にそうだったのだから岡田は何事もなく「おおきにな」とそのまま部屋を出て行った。

 …何故か。
 余計に溜め息が出たことすら、翡翠の無意識下に置かれなかった。

 溜め息など漏れれば肩凝りが意識に入る。肩を揉み解せばぼんやりと、関係もなく疲れた懐古が浮かんできて、肩の藤の刺青と無理に関連を付け、まるで泥の水溜まりに足を、浸そうとする気持ちになる。

 こんなときに水溜まりを綺麗に見ようとする一滴を、貴方は一体持っているのだろうかと、朱鷺貴の仏壇を眺めた。

 確かに。
 綺麗にする役割は自分でなくてもいいのではないのかとすら思えるなと、岡田の気持ちもわからないでもないけれど。そんなことはきっと、端からどうだっていいのだ。

 翡翠は畳んだ布団を広げ、襖に背を向けて仏壇に向きぼんやり、モヤモヤとした。

 最近の疲れはこれなのだろうか。どうも生活と共に何か、水溜めに一滴ずつ波紋を広げるものがある。
 それは亡霊に近いものなのにな、と、頭痛がする思いで目を閉じた。昼の陽気は、本当は昼寝に最適なのだ。

 目蓋の裏にいまだ張り付いている。
 母も父も姉も切り捨てられ、その虚空に現れた男も自分の体温のなかで絶命し、最後は自分の体に血液をぶちまけた。

 体液というのは血液成分だと、藤嶋に聞いたことがある。

 それで本当に染み付いてしまったのだとしたら確かに、この藤は一生背負わなければならない。

 自分で立ち切る手段もあったから、あの時は確か、枕元にある刃物を探した。この男を奈落の底に切り捨ててやろうと思った先には義兄の、血飛沫が跳ねた顔があった。

「ははは、死ね、外道がっ、」

 何度、何度と義兄は義父の背に短刀を差し、やはりまだ自分も刃物を探し続けた。
 あれが興奮か恐怖か…ただ夢から覚めたのは事実で。

 そこには二人と一つの屍のみとなったはずだが、「藤宮さま、藤宮さま、」と聞こえてくるのにあぁ煩わしい、自分はいま繰り返す夢を見ているのだ、と意識する。

 かんっ、と、木に鉄が刺さる感触がした。

 だけど、ふわっとしていて、これは線香のように浮遊し霧散するものだと眠くなったとき。

「失礼します、」

 朱鷺貴の意識は線香の煙から現実に戻った。
 慌てたように喪服も着ずに現れた壮士の小姓、|左京《さきょう》のヒソヒソ声、袖を引くのに現実の輪郭を掴む。

「おい、」

 法要に何用だ無礼者と言ってやろうかと思えば「すんません、」が先立った。

「あの、大変で、」
「…法要中」
「藤宮さまが倒れています」

 そう聞いてしまえば「何?」と反射で返答したが「わかった」とまた答え、この場で左京しか目撃者は存在しないのだが、朱鷺貴は頭を深々と下げ堂から下がった。

 朱鷺貴が戸を閉めた瞬間に左京は「えっと、壮士様が起こしたのですが、」と慌てている。

「藤宮さまはえっと、刃物を所持していまして、そ、壮士様が殺されてしまう、」
「刃物?
 …状況を冷静に聞きたいのだが」
「えっと…、私は壮士様の声で向かったのですが…壮士様に馬乗りになっていまして、藤宮さまが。で…壮士さまに刃物を突き立てようとして、でもそのまま倒れてしまって」
「…見なきゃわからなそうだな。なんだ、ついに殺されるようなことでもしたのかと言いたいところだが、そうでも無さそうか?」
「わからないです、」
「…正直に聞きたいがあいつはこの寺でどんな立ち位置にいる。俺はお前らより偉いからわからない。同じ小姓として…だなんてお前に聞いても」
「そんなもの、皆一目置くくらい…まだ日が浅いですが、彼はよくやっていますよ」

 慌てた左京に嘘は見えないような気がするが、先入観も良くはない。
 しかし確かに、案外翡翠は人との立ち回りが上手いと知っている。やっかまれるとしたらもしかすると自分のせいかもしれないと、少し朱鷺貴に過った。

 今回も少し、正直言えばどこかで、汚れ仕事を任せてしまったのではないかと思っていたところだったし。

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