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黙りこけていた。
潮騒はこの国民に馴染みがない。
「…なんやあん人ピクリとも動かんな」
船上、長州藩主の小姓だという高杉晋作という男を眺め、藤宮鷹は土佐の郷士を振り返る。
「おぇっ…」
そのデカい男は海に向かって吐いている。
「…あーあー大丈夫でっか坂本はん。なんやぁ、」
お前ら総じてだらしがないなまったくと、鷹は坂本の背を軽く撫でる。
先には海外の清国という大きな国がある。
港は白人達が占拠しているに等しいものだった。隠しもせずに人身売買も行われている。
上海では最早、清の国民ですら自由に歩けない。そんな実情を目にしたのだ。
「……あー、ダメじゃ、まだ慣れん…」
「まぁ俺も二度と乗りたくはないなぁ、」
そうぼんやり鷹は言うが、坂本はどうやら這ってでも高杉の元に行き、「どうかや…?」と弱々しく言うのだった。
船は相応に揺れている。
具合が悪そうな坂本を一瞥した高杉はただ、「うん」とだけ返事をする。
「気分が悪い」
「まぁ、なかなか、」
「僕の家はな、坂本くん。下関あたりなんだ」
しっかりした口調の高杉に「あぁ、」と、坂本はだらしなく帆に凭れた。
「…のぅ、高杉さん。日本も、本当にあぁなると思うがや?」
「……現に半分はあれに近い。
…土佐では見ぬ風景だろう。下関はもう落ちた。異人がのさばり日本人は人として扱われないんだ。まるで、物のように、」
それに坂本は「ふぅ…」と一息を吐く。
「…僕はいまずっと考えている。人とは行けばこうも醜いものなのかと。外を歩くこともままならない、これは牢屋と変わりがないだろう、違うか?」
「……わしゃぁ長州|過激派《・・・》の意見に賛成がよ。軍事力がなけりゃぁ日本は今に食い尽くされる。じゃが、そんためにゃいっそ異人をも使って、言うなら利用して学ばにゃならんと」
見下ろした高杉は「異人を使う……?」声を低くした。
「……確かに見なければわからなかった。
この船のように、地盤も固くなけりゃどこまででも流されて行く、そうじゃないのか」
「まぁ違いない。時には額を土に擦り付けることもわしゃぁ覚えたがよ」
一瞬黙った高杉に「まぁ、おんしゃぁ上士やったか」と坂本は言う。
更に黙り何かを考えているような潮騒が流れる。
端から見れば一番食らいつきやすいと状況だと鷹は両者を眺めていた。
「……坂本くん」
「んにゃ?」
「船は転覆しないという話だが」
先に考え付くのは無惨にも、港で覚えたあの……冷たい震えのみだなと、高杉は袖口から指ほどの大きさの瓶を取り出した。
「……浮力というものは海ほどの広さでなければ成らない。大地に物を引っ張る力があるのに対し、水には浮上しようと抵抗する力が働く、これが重心というもので、この力加減により船は下へ沈むことがないが……」
海は、だから広いのだとある日教わった。
泥が詰められた瓶を見せられた坂本は「ん?」と首を傾げる。
「…それは上下の話で、横から吹く風に船はめっきり弱く、だから縦に進むような設計になっている。わかるか?」
…どうやら。
「これは恩師の首塚の泥だよ」と、皮肉な表情で高杉は続ける。
「瓶は長崎で買ったが、」
「…ほぅ、」
「坂本くん。君は身を滅ぼしてまで物を欲したことがあるだろうか」
…どうやら吊れないようだ。
「ないならばあの人の気持ちは一生わからない、」
瓶をしまった高杉は「ははっ…」と弱々しく笑った坂本にはっきりと、「君とはいつか刺し違える仲になるかもしれないな」と言った。
…どこで機嫌を損ねたのだろうかと坂本はその表情を隠さない。
まぁ、そんなもの、関係ない人間からすれば甚だどうでもいいが、この商談はご破算かと鷹は眺め続ける。強者と|兵《つわもの》は同じものではないらしい。
たが高杉は次には懐から……いつ仕入れたのか「スミスアンドウェッソン」を取り出し、銃口を坂本に向けたのだった。
「…ちょっ、」
「対等で結構だ」
その一言は、船風よりも冷たく。
しかし撃たずにじっと喋らぬ高杉に、真意はわからぬままの坂本が恐る恐る銃口を掴めば、あっさり高杉は手を引いた。
「…いつか僕の血を飲ませてやりたいほどに腹が立つ」
それだけ言い捨て漸く、高杉は皮肉な表情で笑う。
「お、おぅ…」
腰を抜かしたような坂本にまるで構わないというつんけんとした態度で再び先、清国を眺めた高杉に、「すきもんやなぁ」と、漸く鷹は傍観を止めた。
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