6
眠れなかったのは高杉と一緒だった。
まだ夜も明けきらない朝方、彼はひっそりと立って堂を去って行った。
さて、と翡翠が堂を開けると、門のあたりで寒そうに両腕を擦る朱鷺貴が見えた。
…師に叱られるかもしれないと呟いていた志士と朱鷺貴が鉢合わせたかは定かではないが、翡翠は気まずさもなく「トキさん」と声を掛ける。
朱鷺貴が何事もないように振り向いたので、「おはようさんです」とも声を掛けた。
雪は止んでいるが、足場はまだザクザクと霜柱が溶けない。
「おはよう」
朱鷺貴が何かを待っているのはわかる、それが手紙だと言うことも理解するから「すませんね」と隣に立つ。
「…手紙、で」
「ほれ」
朱鷺貴は翡翠が言い切る前に懐から手紙を出し、渡した。
「…昨日の朝だ。どうにもこうにも忙しくて、遅くなった」
「………?」
その場で開けば、思い当たる宛など一人しかいないけど。
近頃は雪がちらつく頃合………からすぐに目に入ったのは「ついに、父が病に臥してしまいました」という一文だった。
「…え、」
更にもう少し戻ればそれは「労咳」とあり、進めれば「私も一人看病する手前、なかなかお返事なども」だなどと書かれていた。
「……みよさん、」
「…悪いな。目についた」
「………」
言葉を失った。
手紙は何度も目を滑り、結局「父、労咳、お返事なども」しか頭に入ってこない。
そうしているうちに早々、朱鷺貴が待っている幹斎からの手紙を受け取れば「まぁ寒いだろう」と、心なしか優しく促すようだった。
……だからと言って。
大切な人の大切な人が病に臥した……とずっと文末まで考えればみよだってその「死に病」に瀕している。
だからといって遠い、ましてやなんでもない男一人がどうしたというのは、考えたくなくても、考えられる。
例えば。
この状態でみよが倒れたとして……死んでしまったら。
ぱったりと、こんなことすらも。
そしてそれは察するのみで、自分には一生霧の中に隠されるだろう。
二人で部屋に戻ってすぐに、朱鷺貴は早いながらも仏壇に手を合わせた。
浮かない、いや、悲しい顔をした青年に促すのはよもや心を濁らせるとわかっていたが、「はい、」とそれを促せば、やはり俯いた状態で彼は仏壇に手を合わせるのだった。
『儂には耐えられなかったのだ』
刀が、視界の端に入る。だが、大方事は決めていた、けれど、だから言わなければ進まないのだと、すぐに終わった翡翠に「翡翠」と呼び掛けた。
「…あい」
「まだ夜も開けてないけど、」
「そうですね」
だが、そう。
手紙よりも自分は言葉が下手だからと、朱鷺貴は居心地悪くもちゃんと刀を手に取り、翡翠に渡した。
「……え、」
「…上手く言えないけど、」
それでも間を不自然に持ちながら「…これは、」と続ける朱鷺貴の真意に、何故か……肺病とは、もっと、遥かに苦しいのだろうかと胸に過る。
「…俺の父のもので」
「…あい、」
「母が、」
「あい、」
その手が、震えているのだから。
「…トキさん、」
「それは利己だとわかっているし、何事もない、出来ないのかもしれないけれど」
「…あい、」
言葉は詰まって…息を白くするようだ。
「……行ってこい。
これは墓標だ」
…短く途切れた言葉と、息が詰まりそうな間。
更に言いにくそうに「だから帰ってこい」と告げた朱鷺貴を前にして思う。きっと、その刀を託す意味がどれ程…彼を苦しめたのかというのも過るけれど。
確かにこれでは切腹すら出来ないし、自分は使い方も曖昧だから。
母や父や姉を思い出したとしても。
母や父を思い出したとしても。
だから。
「…わかりました、」
彼は確かに言葉が下手で仕方ないが、大切なことは全部、きっと自分に伝えてきてるのだろうと、震えて情けない…いや、大きく逞しい手を取り刀を受け取ることにした。
「必ず帰ってきますから」
その一言へ安堵の表情も見えず、言うならば微妙、読めないのだが「…7日です」と約束をし、振り向けば朱鷺貴は闘志より、悲しそうな表情だった。
「それまではお寒いですので、トキさんもお気を付けくださいね」
「…わかった」
いくらだって、振り向けるはずだ。
…いくら、立ち切ることなど出来るわけがないのだからこそ。
陽が昇ったか昇らなかったか、曖昧な頃合い。薬箱を背負った翡翠は、まさしく正三日限として宇治の山を降りた。
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