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 これがここに流れる現実かと、「…ははは、」乾いた笑いしか出てこない。
 たった、たった少し話した程度の人間だからこそ、わからない。

 よく、師に「気が短い」と叱られたことを自然と思い出した。

 いくらでも、牢獄のように狭まったこの堂すら自由で、しかし自由なのに生きた心地がしないと感じてくる。
 それほどここは自分と離れている。ある意味無差別で自分と変わらない筈なのに。

 師も捨て友も捨て、僕は一体どこに足をつけるのか。

 なんの神かは知らない、だが仏像が自分を見下ろしている。
 いつもそれは確かに感じているような気がした。

 苦無は鉄砲ではないが刃だ。

 今更それを感じた高杉はただ何も言えなくなったまま、翡翠が手当てをする手順をぼんやりと眺めた。まるで、現実に引き戻ったかのように。

 そんな中、翡翠がふと、「酒はないんですか」と訪ねてくる。

「酒は浄化に丁度ええんやけど」

 そう、睨み付けるような視線はやはり何処か娑婆の者では無いと感じた。

「…逃げ回っていた」

 それだけを聞けば戸の付近に座り見守るのみだった朱鷺貴が「持ってくる」と立ち去った。
 ふう、と一息吐いた翡翠が「あと一歩で殺してましたよ」と、低く唸るように言う。

「…そうか」

 きっとそうだ。
 あの、血のように流れた漣の感情が沸き起こる。

「そうだろうな…」

 だから、身を斬るような刃の音が耳の奥から聞こえてくるのだろうか。

「僕の師はとても強い人だったよ」

 仏はいつでも見下ろしている。

「頑固で、勝手で…」

 「師が死んでしまった」。
 この男が寄越したこの男の同志が言った事柄も思い出された。

「…僕はきっと師にも怒られるだろう。志というのは、それほど正しく残酷なものだ」

 きっと多くは語らないだろう。
 この男には執着とは違う、捨てきった複雑な陰が絡んでいる。ある意味仏が説く「逢、殺」と同じものが見える気がした。

「志を託すものは皆傲慢なのかもしれません。情はどうしてもそれを濁らせる瞬間がある」
「…僕は優しさという利己で無駄なものが捨てきれていない、捨てられないんだ、たったそれだけで」
「優しさとは強さでしょうか高杉さん、」

 そしてハッキリと「わてはそうは思わない」と彼は言った。

「それを捨てない志を斬り捨てることはわてには出来ない。貴方を例え傷付けることが出来たとしても。
 役違いですが、それ故わての志と違えればいくらでも貴方の首を狩ります。捨てはしませんが夜にはお発ちください」
「…君は優しいな」

 返すなら、間違いなく敗北はした。
 しかしまだ血は流れ落ちているらしい。

「あの坊主が言ったことがあります。
『正しくないから罰せられる、だが正しいと思っている方は意思、信念の違いで理解が出来ないだろう』
と」

 気付かないようにと気を使ったのか、坊主がこっそりと戸の隙間から酒を置いたのが見えた。

 それに気付いた翡翠は酒を手に取り、少し血が止まったその足に遠慮もなくぶっかけてくる。
 「痛ぇ、」という言葉は最早飲み干して歯を食い縛った。思ったよりも深手で、だが自分は生きている、その場所が奈落か現実かとさ迷うようで。

「高杉さん。役不足ですがこんな説法もあります」

 という翡翠が漸く笑うのに、やはり現実であると色を見た気がした。

「舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。
 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。
 と。
 般若心経です。舎利子とは息子やら教え子やらを指すらしいです。
 次に会うときはお亡くなりになったときの方が自然ですよ。勿論気持ちや志ではなく、身体が、です」

 …それは酷く透明で大きなものだろうか、夜の空に嘆いたあの日の悔しさには、確かに潮風が混じっていたのだ。
 …やはり教えというのは偉く利己的で頑固で勝手な、血生臭い物だ。どこへ行き何をしたとしても。

 漸く痛みに麻痺し、慣れたところで「酒でもやらないか」と高杉は翡翠に持ちかける。
 「やりませんよ」と言いながらまたその酒をぶっかける様は軽やかだった。

「夜長までこれで眠れず過ごしてくださいね」

 柵を捨て、その先に待つものが自由だという教えがある。
 それがもし、と翡翠は考えた。

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