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 朝の小樽の風は、海の臭いと肌を刺す寒さがあった。
 船を出る際に柊造はアリシアに軍時代の、フロックコートを着せてみた。
 かつて死んだ上官は洋装が日本人には似合わないことが嫌で、小さめに作っていたようだ。彼は少し洒落ていた。戦争が終わり、こっそり小さめに柊造も仕立て直したのだが、見事にアリシアにピッタリだった。

「ピッタリだな」

 自分にはかつて似合わなかったそれに少し嬉しくなる。
 自分は無難に角袖コートを着ながら「父からのお下がりだ」と、蝦夷の地へ、8年ぶりに立った。
 角袖コートでは、やはり少し寒い。

「…寒くないか?」
「冷たいですが、暖かいです」

 アリシアの顔は霜で少し赤くなる。だが、嬉しそうな表情を見て「よし、」と気を引き締めた。

 かつて上司であった榎本は今や、海軍中将に任命されていたはずだ。
 彼は当時から「ロシア侵略を防ぐため」と、この蝦夷を開拓すると謳っていた。そして現在の樺太・千島交換条約締結とマリア・ルス号事件の対処。
 彼は今も生きている。

 確かに、ブレもないが場所を変え、この日本に貢献していた。

 はぁ、と吐いた溜め息が白い。
 ちらっと自分を眺めたアリシアに「緊張してるな」と飾りもせずに言う。

 榎本は当時に白旗を上げた相手の下ですらやっている。それは伊藤や井上にはない根気であると認めざるを得ない。
 長州など、政権を手にすれば実際のところはどうしていいかと持て余していると言うのに。先人たちの教訓を繰り返す、としてもそこが、明治政府の幹部とは違う気概なのだ。

 自分は一体どの面を下げて榎本に会うべきか。
 だが、彼は一度はこの地を諦めた身だ。

 彼はいまどんな心持ちで政府に貢献しているのか。当時の他の参謀たちは皆、何も得られなかったのだから、息を殺し謹慎生活を送っている。榎本はどこまでの情熱で戻ったのだろうか。そこが総長であった榎本と、自分とでははっきりと違う。

 小樽の会館へ向かう最中、開拓された畑などがちらほらと目に入った。
 アリシアは「広いですねぇ」と、興味深そうに感心するのだった。

「土地はたくさんあるからな。だが、ここまで制定するのは大変だっただろう」
「そうなんですね」
「ここはそもそも、細かく国が分かれていたんだ。いずれこの陸地をひとつに纏めたいのだけど、気候や…地形や、なにより広いからな。実質的にはまだまだ掛かる」

 無法地帯というものからは遠ざかった。ここからは時間を掛けるしかない。

 会館に着いてすぐ、間髪も入れずに榎本武揚は自分を待っていた。

 彼は8年分のくらいには歳をとったのだと感じた。
 榎本は疑り深いような表情だった。

 柊造としてはあっさりあらわれた榎本に面食らう、と言うよりも準備が出来ていなかったような心境だった。

「…特命全権弁理大臣井上馨の代理で参りました、秘書の東堂柊造と申します」

 挨拶をすれば「あぁ、失礼」と榎本も少しだけ頭を下げる。

「陸軍中将の榎本武揚と申します。黒田から伺っております。
 …井上氏の代理、でしたか。伊藤氏から連絡がありましたが」
「…あぁ、」

 更に、面食らった。

「…ただいま井上は海外にいまして。突然の訪問、忝ない」
「あぁ、あの人外遊中でしたよね、確か」

 皮肉に返された。

 それから榎本の視線は当たり前にアリシアへ迷うので、「私の倅でございます」と柊造は言う。それにアリシアはペコッと頭を下げる。

「…はぁ、なるほど。
 3日滞在すると伺いました。こちらで部屋を用意いたしましたのでご案内致します」

 雰囲気的には、柊造もアリシアもあまり歓迎はされていない。わかってはいる。井上の今の待遇では、そうなるだろう。

 榎本は自分を覚えてなどいなかった。
 いや、知らないのかもしれない。

 部屋を案内しながら榎本は「大変ですね」と話を振ってきた。

「井上氏の秘書、とは。まぁ、金にはなりますがいまや逆境でしょ。見たところお若いのに大変ですね」
「…そうですね」
「こんなとこ、流刑地だって、あんたも政府の人間なら承知でしょ?」

 はっきりと言われてしまった。

 確かに、ここはいまや、元幕府、奥羽列藩同盟国の士族やら、そういった物達への行き場として与えられるのも多々ある。
 新たに出来た「屯田兵制度」の屯田兵として開拓にまわっている者もいるが、現状は過酷だと柊造は聞いている。

「…まぁ、黒田は井上さんを推したいみたいですけどね」
「…そうですか」
「あんた、元はなんだったんです?」
「…桑名の」

 それだけ言えば榎本は止まり振り返り、「へぇ、」と、至極冷たく言うのだった。

「まぁ私ごときが言えたことでもありませんけれどね。樺太をロシアに売り渡しているし」
「…それは仕方のないと私は捉えますけれども」

 驚いた。
 しかし榎本も同じなようだ。
 「へぇ…」と、今回は少しだけ思慮深く吐かれる。

「攻められるものだと思いましたけど」
「…政府もこの地を早く制定出来ていないのだし、条約改正も間に合わない。寧ろ、ここがなくなっていないのは大業だと、」
「偽善も聞いているとうざったいものですね。まぁ、いずれ取り返しますよ。ここは僕の領地ですから」

 …また大言壮語となるのかもしれないが、なるほど、そうか「僕の領地」。榎本はまだ、この地と、あの敗戦を捨てることが出来ていないのかと身に染みたような、気がした。

 しかし蝦夷共和国はもう、ない。だが、彼はこの捨てられた地を手にした感覚を忘れてはいないようだ。

 榎本を応援はしないが否定も出来なかった。ただ、だから負けるのだといまならはっきりと柊造にもわかる。 

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