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蝦夷へ着くまでに悪天候に見舞われた。
3日を要して船に揺られ、柊造は函館戦争の頃を自然と思い出す。
その災難に加え、環境に慣れないアリシアはやはり具合が悪くなってしまったようだ。
「すみません」と、蒼白い顔で寝込むアリシアに「天気が悪いからなぁ」と、柊造は側を離れなかった。
「父もなぁ、始めはダメだったな。そもそも、わりと皆ダメなものだったよ」
「…そうなんですか?」
「そもそも父が子供の頃は、こんな物はなかったからなぁ」
一体アリシアがどうやってあの異人館に流れ着いたのかは柊造には分からないし、今や知れるものでもない。
元は異国から流れてきた、にしても、英国公使館の事件ではアリシアは赤子だったのだから船など経験もないかもしれない。
彼はどうやら、日本人のようだ。柊造はそう考える。
「眠れたら寝るといい」
柊造がアリシアの汗ばむ手を握ると素直に「はい」とアリシアが目を閉じる。
額に触れたら冷たい。体温が下がってしまっているのか。こればかりは水などを飲ませた方がいい。
アリシアの体調が心的な物だろうと柊造は承知している。
恐らくは異人館で奉公をしていたときの扱いが悪かったのだ。現に引き取った際に異人館の主人は「厄が落ちた」と言わんばかりだった。
震えた子供は「だんなさん」と朧気に言い自分に抱きついてきた、その身体の体温は高く震えていたなら、「違う」と伝えて。
君は女中なんかでも疫病神でも病原菌でもないんだ、そしてこれが自分の利己でしかないのかもしれないとわかっていても寂しくて寒かったから、そうしなければならないのだと感じて連れて帰るしかなかった。
父は酷く勝手なんだ。
だから酷く疲れるのだと考えても、子供の顔を見れば忘れ去っていく気がする。戦争で捨てた物の一つは形を変えていた。何故アリシアだったのか等は目に入ったから、それまでしかない。
どこまでも自分には負け犬に近い根性しかないと、柊造 は荷物の中の脇差しを思い出した。
何度。
何度。
何度あの場所で人知れず腹を切ろうとしたかわからない。島田はその時に自分の脇差しを渡してきた。
それで全てが終わったのだと柊造は漸く肩の荷が下りたような気がしたのだ。そうだった、はずで。
それからアリシアはぐっすり眠れたようで、もぞもぞと起きたのを確認したのは蝦夷の領海で、夜中だった。
「起こしてしまいましたか」
と言ったアリシアの顔色は寝る前よりも健康的に戻り、仄かに笑っていた。
「心配をかけてすみません、いくらかよく、なった気がします」
窓の外は真っ暗で、自然と息を潜めて夜目を利かせようとしてしまっていた柊造にアリシアは「どうしました?」と尋ねるのだから、自分が緊張していたことに気が付く。
「あ、あぁいや…」
多分、今寝れてもいない。ずっと、頭の中で銃声が響いていたような気がしてならない。
目も赤い柊造にアリシアは「具合が悪いですか」と訪ねるが、そもそも父の覇気のようなものが一風変わっているのだから、それで言葉を詰めるしかない。
少し、父が怖いと感じたのは初めてだった。ずっともしこのままであれば父は、どうなるのだろうかと「父、」と呼び覚ましたい気持ちになった。
それで少しばかり、夢明けのような、こちらに戻ってきたとばかりに「考え事だ」と言う柊造とアリシアは目が合う。目は赤いがきちんと、アリシアの知る穏やかな父だった。
「雨も止んだようだね。きっと朝には降りるだろう。アリシア、具合はどうだい」
「はい、眠る前より遥かに良いです」
「そうか、よかった」
「父は、どうですか」
「父か?…少々眠れなかったが、大丈夫だ」
「そうですか」
ふと柊造は「そうだ、」と思い出し、荷物の中から持参した脇差しを出す。
アリシアが目に見えて怯えたような、息を呑んだような様を構うことなく「アリシア」と、いつもと変わらずに呼ぶのに、アリシアの表情は複雑だった。
「…これは父の物だ。もしも何かあったときのために」
アリシアの受け取ろうとする手は相当震えていてわかっていた、アリシアは心的なものなのだろうか、刃物が怖いのだ。
そうか脅かしてしまったと柊造は思い直そうとするのだけど、それでも表情だけは変わらずに脇差しを手にしようとするアリシアが「何か?」と言うのに、すっと何か、降りるものがある気がした。
「…いや、」
自分は何に拘るのか、何を、諦めたのか。明白な気がして言葉は「…形見だ」と、変境地へ行く。
聞いたアリシアがはっきりと受け取り「預かりします」と言ったのだった。
「これは多分、大切なものですね。私も知ってる。それは、重く受け止めなければいけないですね」
ふらっと、父はそれで項垂れ、顔をあげることがなくなったことに、ここで終わる方がいいのだとアリシアは思う。
船の中は寒々としていた。
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