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 書斎にいるのもなんだか気乗りがしない。
 静かに、店先の番台に座り小さな電気の釣り行灯の明かりを灯した。
 明かりを見て、少しの情緒と安心が得られたような気がして漸く一息を吐いた。

 果たして今自分は何にこんな、不安やら苛立ちやらを覚えているのだろうか。
 ただただ自分は、踏み入ることも踏み入られることも何処かで安定がないのだ。
 自分の過去現在、そして将来は途方もなく目の前に叩きつけられるようにそこに存在して息を潜めているのは確かだ。ふとした瞬間に抱き付かれる。それがなんとも言えない脅威と虚無に近い諦めだ。

 しかしそれは誰しもが持ち戦うものだ、何も自分だけではない。何処に行こうが誰と居ようが何をしようが己が存在し続ける限り共にあり続ける。
 過去に対して言うならば誰かはそれをトラウマと言うのかもしれない。現在に対して言うなれば事象、将来は予言。
 自分は少しのトラウマで芯が震えてしまう。事象でイライラしてしまう。予言で情緒が乱れてしまう。

 突き返すことはなかったのに今のは、トラウマと事象が強すぎたのかもしれない。裁断してしまった自分の愚かさや弱さはいつも、空太といる時に感じるのだ。

 空太には、自分のような弱さがいつも感じられない。

 何故だろう。脆さがない。揺るぎない何かがある。少なくとも自分より安定した波で箱舟に乗っているような穏やかさで。自分はそれに36.8℃くらいの微熱で甘えているような気がしてならない、こんな事象。揺蕩うには酷く安定していて不安である。

 忘れたい。一度外に出てみようか。

 物思いに更けてしまい暗くなる。
 店のシャッターを開けて昼の、夕方に近い昼下がりを浴びた。
 息を細く吐く。漸く詰まった息が一度出て行った気持ちになれた。都会の空気。しか、今はサナトリウムのようだと蛍には思えた。

 それは却って病的だ。あのときの、あの場所とは違った、自然の中の診療所。本気で吐きそうだ。考えただけで、それはもう。

「あの…」

 ふと、声がした。
 最近よく来る高校生が、気まずそうに店の前に立っているのを見つける。
 時間的にはまだ、学校は終わっていないだろう。しかし彼は、俯いて眼鏡を気にしながら、ただ店の前にいた。

「あぁ…」
「今日は…お休みなんですか…?」
「うん。水曜日は、定休日なんだ」
「そうですか…。すみません…!」

 焦ったように頭を下げ、立ち去ろうとする灰色カーディガンの彼に、なんとなく蛍は、「君、あの…」と声を掛けていた。

「は、はい!」

 これまた忙しなく正念は急に動きを止め、振り返るのはなんだか、緊張というか焦りというか、蛍は少年からそんなものを感じ取った。

「…たまたま開けちゃったし、せっかくだからいいよ」
「えっ!?」
「…特にやることもないし」
「ほ、ホントですか!?」

 そんなに驚くことだろうか。

「うん、少しなら」
「あ、ありがとうございます!」

 まぁ、喜んでもらえたのなら何よりかと、蛍は取り敢えず少年を店に招き入れ、電気を点けた。

 いつもの椅子に座らせようと考えたが、戻ってみると空太がそこに座って絵を描いていた。戻ってきた蛍と少年を見るなり、怪訝な顔で見上げてくる。

「どうしたの蛍」
「いや、店の前にいたから」
「あ、あの…」
「あぁ、どうぞ。お茶でもいれます」
「いえ、そんな、」
「じゃぁ俺がいれてやろう。君、名前は?」

 そう言えば聞いていなかった。

「あ…。
 東雲翠《しののめあきら》と申します」
「変わってるなー。え?あきらは?」
「こっちも、あの、カワセミの」
「翡翠《ヒスイ》の翠《すい》か。情緒がある名前だね」
「あ、そうですか?よかったです…」

 何がよかったのだろうか。蛍には皆目わからなかった。

「あの…その…」
「ん?」
「お名前を…お伺いしてもいいですか?」
「あぁ、はい。
 涛川蛍です。」
「蛍…さん、」

 蛍が名乗れば何故だか少年は凄く照れ臭そうに、しかし嬉しそうに笑い、「よかった」と言った。

「ずっと聞いてみたかったんです。なんか、イメージ通りなお名前ですね」

 それはどう言った意味なんだろうか。

「イメージ通り…」
「いや、いつもなんかこう…。お着物バッチリで、なんか儚げと言うか…俺は一体何を言っているんだろう」
「多分それはね、君のせいじゃないな。
 俺、ちょっと君の言いたいことわかるわ。ちなみに蛍は男だよ」

 空太がそうふざけたことを言いやがる。多分さっきの流れのおちょくりだ。
 しかし彼、翠は、「あぁ、わかりますよ」とやんわり空太を流した。

「あなたは…?」
「粟谷空太《あわやそらた》」
「かっけぇ…」

 どうやら結構素直な子のようだ。
 そして案外、お喋りなようだ。

 それからしばらくは茶を飲みながら3人で、なんとなく日常的な会話を楽しんだ。

 彼はどうやら、すぐ近くに住んでいるようだった。
 高校はここから歩いて30分ほどの都立の高校らしい。母親と二人暮らしをしているのだそうで。
 学校について彼は語らなかった。こちらも深くは聞かなかった。

 まぁなんにせよ新鮮だった。蛍の中ではサナトリウムから脱走が出来た。

「蛍ちゃん」
「なんだい」
「そろそろ野山さんが来るよ」
「あっ」

 忘れていた。
 そう言えばそんな話をしていた。

「あの…」
「あぁ…」

 ふと、なんの脈絡もなく発した空太の発言から少年は何かを察し、「また明日、来てもいいですか?」と聞いてくる。

 来ていいですかも何も、わりと最近毎日のように来ているじゃないか、平日は。

「いいですよ」
「ありがとうございます!今日は、帰ります」

 そう翠が言ってくれたのは少し助かった。まぁ、呼び止めたのはこちらだが。

 翠はそれから間もなくして帰宅した。一時間も店には居なかったが、彼とはなんだか、距離が少し縮まった気がした。

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