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 過去の面影がふと頭に浮かんだ瞬間、筆が ピタリと止まり、指先が震えて思わず万年筆を置いた。

 どうして思い出したんだろう。

「蛍」

 その声に、息が詰まる思いで、というか詰まってしまって、それが認識されると途端に過呼吸に陥った。

「蛍、」

 それから優しく背中に添えられた手を咄嗟に叩いて払ってしまった。しかし、顔を覗き込む彼の顔を見て、何かを言おうとするも息は出ていくばかり。目を細めた空太が置いた目の前にあるグラスの水が、光って綺麗で。

「っぁ…」

 あの日の、
ぶら下がったチューブの先の真空パックのような、液体を思い出した。動脈に繋がれたそれとゆっくり落ちていく滴を見て自分はそう、
あぁ、これはなんなんだ。
 そう漠然と、ぼんやりと思った17歳の夏。朝の情緒が湿って滅菌された室内と白い天井に意識が困惑して。

 自分は確か、夜中に父親と、
疲れきった顔で自分を起こした母と、
そして自分は。
 なぜ今こんなところにいるのか。

「蛍…、わかるか?」

 そして泣き腫らした空太の顔と。
 手を伸ばせない動脈管の点滴に。

「…そらた?」

 ただ反射した薬品がキラキラしていた。
 皮肉にも、飛び火のようなそれが命だと、現実が痛く幻想として振り被って己に突き刺さった。

 あれから8年を有して今、ここにもこんな息苦しいリアリズムを生み続けているのか。

 突っ伏して、原稿の乾いた音を聞いて漸くそれは治まった。
 なんというかこれは精神病に近い発作かもしれない。たまに起こることだ。脳に血液がどっと流れて漸く理解し、少し半身を起こして空太が用意した水を飲んだ。

「蛍、」
「空太…」

 まだ少しだけ呼吸は浅いが、抱き締めるように両肩をふんわりと掴む手は優しい。それだけで、安心した。

「大丈夫、ここにいるよ」
「うん…」
「落ち着いたら食べましょう。
よかった、今日はあっさり治まったな」
「ごめん、急に」
「まぁ慣れたよ。俺はこれくらいしかしてやれないからな。
 よかったー。咄嗟につけ蕎麦にしたよ。どする?少し煮る?」
「大丈夫、ありがと…」

 台所から咄嗟に駆けつけたのか。なんと申してよいのやら。

「腹減ったー」
「疲れた…」
「だろうね。今日は酒はダメだな」
「余計無理」
「悪い子ですね。夜1杯だけね」
「夜までいる気?」
「なんだよ迷惑そうに。仕事終わるまでいるよ。何なら合宿扱いだからね」
「…空太、あんまり営業実績ないの?」
「うるさいなぁ」

 どうやら的を射たらしい。気まずそうに台所から蕎麦と出汁を盛って「はい!」と、ぞんざいに置かれた。
 天ぷらは別盛りで皿に盛られていた。薬味のネギと、ゴボウやら水菜やらニンジンやらの天ぷら。流石である。

「さてさていただきましょー!」
「いただきます」

 治まってしまい料理を出されればあっさりと空腹に気付いた。これも蛍の中の、日常のリアルと常識だ。

 なんだかんだで空太の料理は蛍の好みに合う。昔から食べているせいだろうか。ただ別に、空太は料理が得意とか上手い訳ではない、多分。
 蛍にはない器用さである。というか空太はわりと昔から器用だ。

 お行儀よく食べる蛍の、箸を持つ右の利き手を見て空太は、今日会ったときから気になっていた疑問を口にしてみた。

「手荒れしてんな」
「あぁ…」

 どうやら本人は特に気にしていなかったらしい。

「最近乾燥してるからじゃない?」

 なんて、女子みたいな返答が蛍から返ってきたが、それにしては結構な荒れ具合。なんだか、アレルギーとかってこんな感じなんじゃないか。

「…花粉症?」
「え?」
「いや、ちょっとアレルギーっぽくない?」
「え、そうかな…。
 あ、でも最近そう言えば咳増えた」
「やっぱりそうじゃない?一回検査したら?」
「うーん、」

 どうやら蛍は乗り気じゃないようだ。これは連れて行かねばならないな、近々。

「じゃぁ、行くか。明日にでも」
「え、ホントに?」
「うん。なんかだって痛そうだし」

 皹《あかぎれ》でもなさそうだ。
 取り敢えず今日は、水仕事は自分が引き受けることになりそうだな、とぼんやりと空太は思う。

「…いいよ、別に」

 しかし、どうも蛍は表情を曇らせる。
 まぁ、なんとなくわからなくもない。多分、少し不安定ではあるのだろう、情緒が。

「あそう。いや、俺が気になる」
「なんで」
「お前な、書きにくくないの?」
「…別に支障なんてないよ」
「まぁいい、俺が気になるから行きます」
「嫌だ」
「頑なだな、なんでよ」
「病院嫌いだから」
「んな子供みたいなこと…」

 言ってしまってはっとした。
 案の定蛍は不機嫌を隠さず、顔をしかめてしまった。

「…もういい」
「蛍、」
「自分で行くからいい。
 ありがとう、ご馳走さま」

 わりと食べてくれた方ではあったが、やはり残した。
 そのまま自分の空いた食器を片付け、万年筆だけを持ってその場を去ってしまった。

 仕方ない。
 ラップに包んで保存しておこう。今のは少し配慮がなかった。と言うか言葉を間違えた。完璧、勢いに任せてしまった。

 空太は溜め息を吐いて食べられる分を食べた。全部たいらげた。どうやら相当腹は減っていたようだった。

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