3
まずまず上々。少しばかり我が儘だがいいだろう。どうせ、空太も根詰めている。インスピレーションに最適だ。
「話はそれで終わりでしょうか」
「そうですね。今日のところは。また対談が終わったらにしましょう」
「わかりました」
|蛍《ほたる》は一瞥して軽く頭を下げたような、下げないような挨拶をして客間を後にした。
結局不服な点を今は伏せる、そして仕事を一つ、感性の名の元にしてやってこいと、これだけだった。
正直身入りのしない不透明で白濁色な会話だったな、こんなのはただの当たらない天気予報と大差ない、意味のない会話じゃないかと蛍は心の中で卑屈めいた。
相手が何を言いたいのか全然見えない。なのに面白くもない、こんなことのためにわざわざ出掛けたのか。
いや、本当は。
わかっているような気がする。
月刊一本に絞り、仕事量を減らした。ただでさえ売れていなかったにも関わらずそんなことをした。なんとなく作品も内容がヘビーなような、フラットなような。直木候補で少しばかり知名度が上がった後の申し出は少々、編集長を動揺させたのかもしれない。
だが別に出版社を打ち切ろうだとか、そういったつもりもない。ただの間延びなのだ。
しかし自信を失くしているのもまた事実ではある。大作に取り掛かると付き纏う事柄なので正直こうしてあまり構わないで欲しいが、それもまた我が儘だ。そう納得してこんな、やらずともよい気遣いを見せて足を運べば全てが案の定だった。
外に出れば雨が激しい。秋から冬にかけての冷たい雨。今年は乾燥を|凌《しの》げるか。
持参したビニール傘を傘立てから探す。透明で視界がクリアなやつだ。
しかし、傘立てをいくら探しても半透明なやつしか見つからない。これはしてやられた。丁度昼時だし、間違えてしまったのか、敢えて傘を忘れた連中が持って行ってしまったのか。
仕方がないので自分が置いていた辺りの、半透明なビニール傘を手に取った。どうせ当の本人はこれと間違えたのだろう。
傘を開くのに手間取った。
そういえば持参した傘は親指一つ、ボタンというか取っ掛かりを押せばぽんっと傘が勢いよく開いてくれる傘だった。この、拝借した(と言うよりは代わりに貰った)傘は、取っ掛かりを上まで引き上げなければならないタイプの傘だった。
なんとなく蛍はあの、持参したタイプの傘が好きではなかった。
何故ならまわりであれを使われると一瞬身構えるからだ。
しかし空太は今日、自分が傘を手にした瞬間嬉しそうな顔で、「ポン傘だぜ」と言っていた。意味が漸くわかった。
そして価値すらも漸くわかった。認識を改める。あのタイプ凄い。なんなら今使ってるこのタイプはまごつくから嫌だ。ポン傘素晴らしい。
見事なる「ポン傘」への掌の返しぶりに自分でも感心出来る。傘一つにこの感動。小さな文明の発達は侮れないなとぼんやりと考える。
しかし、まぁ。
雨雫を眺めながら半透明な回想の向こう側を見た。
あの曇った窓ガラスの水蒸気。雨の雫はいつでもこうして透明だが、不純物を、空気を綺麗にしてくれる。湿り気を帯びて何かを運んでくる。雨雫の向こう側は至って自然な日常。歪んだ遠近法と|澱《よど》んだ空と、空気と人と。
雨の日は嫌でも自分の記憶のどこかを掠める。人々の喧騒の端が返って、禍々しいものだなぁとぼんやりと思った。
追憶のあの時、自分でも何故両親の背に着いて行ってしまったのか、理由はわからない。
こんな感じだった。
ぼんやりと帰宅して、そしたら母親が擦れきった、というよりも自分が学校に行っている間に5歳くらいは老けてしまったのかと言うほどに、今言うならば妙な色気を持って出迎えてくれた。
そして珍しくあの人も優しくて、玄関先まで来て「行こうか」なんて言われた、多分それだけだったのだろう。まさか、それから死にかけるだなんて。
しかしどこかで自分は、不穏なことくらいは、察していたような気がしないでもない。
二人が終始無言で、母親がどこへ車を向かわせていたのかわからなかった。
あれは今考えれば、それだけで生々しく語られていたのに。
傘を持つ自分の手が目に入る。コンクリートを打つ雨雫。雨靴で正解だ。
そういえば、手荒れが治った。何をしたわけではないが。
少し寒いかなぁ、こう湿っていては本によくない、今日は店に暖房を入れようか。
- 36 -
*前次#
ページ: