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逃げたな、まったく自分が植えた種の花を雑草に変える男だなとつくづく溜め息が出た。
未だ物言えぬ翠に取り敢えず、「まぁ座ったら」と促せば、「あ、はい…」と気の抜けた炭酸のようになった翠はへなへなと再び座り、机の上に出された“ありし日”を眺めていた。
そんな反応をされたのは初めてだ。どう対応すべきかわからない。
先代ほど…。
あの人ほど自分は外交的な作家でもないし、なんだろう、こんな時どうしたらいいのか。
いままでサイン会や講演会などでファンとは出会ったこともあるが、こんなにも身近でリアルには感じたことなどなかった。
ありありと伝わる少年の心情。何か大したことを言ったわけでもない、そういうくくりで出会ったわけでもなく。
要するに心の準備が出来ていないのは蛍も同じだ。
「俺…」
先に口を開いたのは、翠だった。
「定時制に通ってるんです。まぁ昼の学校でも別にいいんですけど…」
突然何を語り始めたかと思えば。
「なんかピンと来なくて」
なるほど、定時制だったのか。
しかし、昼から出歩いてることに対しては、親は何も言わないのだろうか。
「…中学校で俺、演劇部だったんです。音響でした。ただまぁ、部員が少なかったから…先輩と俺だけでした、音響って。この先輩、凄く仲良いんです。一緒に音響資材を図書館に借りに行ったり、部活のあと遊びに行ったり、先輩の家に泊まったり。
けど仲良かったのには理由がありました。リストカットしてたんです、先輩」
漸く空太が急須と湯呑みを持って現れた。
それぞれに茶を注ぎ、空太は翠の前に座る。「ありがとうございます」と翠は空太に礼を言い、茶を眺めていた。
「俺それ知ったらなんか、何していいかわからなくなっちゃって。そのうち自分もなんか悩んじゃってリストカットしちゃって、止まらなくなっちゃって。
あれって不思議ですよね。慣れてくると全然痛くない。アドレナリンとかそんなものなのかもしれないけど。
けどある日親にバレたんです。夢中になってたら、|現行犯逮捕《げんこうはんたいほ》」
なるほど。
それで、なのか。そんな話を以前に書いたことがある。
「その時、我に返りました。何してんだろって。親はだから、俺を普通の高校じゃ無理なんだろうって、定時制に入れました。
先輩から受けた影響はたくさんありました。音響技術だって、先輩からたくさん学んだけどなんだか気のせいか、凄く…怖くなっちゃって自分とか他人とか。だって明るいのに、そんなことしてるんだって。
悪いことじゃない。けど、なんで、俺に見せたのには訳があったはず、何かしてあげたいと思うのに、何もしてあげられないんです。
そのまま先輩は卒業して、何事もなく今もまだたまに会うのに勇気がいる。けど、今でも先輩とは仲良しです、きっと」
こんなことを、とくに辛そうでもなく、しかし矢継ぎ早に語る彼は。
「いいなぁ」
ぼんやりとそう言った蛍はどこか空虚に見えた。何故だろう。その呟きが妙に現実を離れている気がして、急に翠の胸が切迫してしまった。
「…えっ」
「いや、なんか。
誰も君をほっとかない。青春の|青痣《あおあざ》ですら押して痛みを、理解できるのかと思って」
その感性は。
「…俺、“|手首《てくび》”読んだんです。なるほどなって思って。青春の傷は深い。そうかもしれないって。
だってこの主人公だって、離れたくても離れられないでいる、手首掴んで離せない。だけど|血塗《ちまみ》れだって書いていたじゃないですか」
「そうだっけ」
「俺少し元気もらいました」
こんな暗い話なのに。
「蛍さんにもこんなこと、あったんですかね」
「さぁ。少なくても上柴楓にはあったのかもしれないな。彼はフィクションを、作り出すけど引き出しから引っ張り出してくるようだから」
そう言って少しの拒絶を見せれば、翠は仄かに湿った笑顔を向けて“ありし日”を自分に向けてきた。そして一言照れ臭そうに、「よかったら、ください。サイン」と言う。
少年の真意は計り知れないが、蛍は仕方なしに番台のペン立てにあった油性ペンの細い方のキャップを取り、癖の残る字でサインした。デザイン性が少しそらたの物と似ていることに、翠は気付いた。
「似てるんですね、サイン」
「俺が考えたんだよ、そのサイン」
と、向かいに座っていた空太が茶を啜りながら言った。
この二人の関係は、一体なんなんだろうか。
「…お二人は、いわゆる幼馴染みとか、同級生、なのですか?」
「幼馴染み、かなぁ」
「俺もここの常連だった。
互いに絵も、文も書く前に出会ったんだ」
「そもそも文や絵は、きっかけってなんだったんですか?お二人は、凄く…なんと言うか俺のなかで、ぴったりだなって」
そう聞かれて回想をしてみた。
雨足は強くなる。雨の日の、何気ない昼下がりには丁度いい時間が流れる。
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