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それからはいつも通り、翠の登校時間まで、さつきの愚痴を聞きながら過ごした。
さつきは珍しく翠と同じタイミングで早めに帰った。二人を見ていたら今夜は、創作が捗るだろうと踏んでのさつきなりの気遣いだった。
その頃には雨はあがっていて、夕方の灰色の空が広がっていた。
これ以上営業しても恐らくは客足はないだろう16時頃、しかしやることもなくだらだらと原稿用紙、スケッチブックに向かいながら閉店時間を迎えた。
18時を知らせる“夕焼けこやけ”が聞こえてきた。看板をしまおう。番台から立ち上がり、スケッチブックを眺める空太が視線を上げ、目が合った。自然と黙ってスケッチブックを置いて立ち上がる空太を特に気にもせず店先に向かった。
外の空気は澄んでいた。空はそれでもまだ灰色だが、奥底に|紅《くれない》。看板はまだ雨を含んでいる。いい加減色褪せてきた看板、そろそろ変え時かもしれない。そんなことを蛍は考えて畳もうとした時だった。
「蛍」
前方、店先の林道から、薄い聞き取れないような、しかしどこか懐かしく滑りよい耳障りの声が聞こえた気がして一瞬蛍は硬直した。
覚えがある。この声は。
「生きていたのか」
その一言は、嵐のような衝撃だった。硬直状態のままただ、脳が思考が停止した反動か、急激に動悸と耳鳴りがする。しかし声の方を向いてしまう恐怖心。
その人物の下から上、足元の|下駄《げた》から|友禅染《ゆうぜんぞめ》の裾、帯、最後に短髪と軽薄な薄茶色の瞳を見て蛍の呼吸が詰まった。
「…っぁ、」
声が出ていかない。
「あんた、なんで…っ!」
後ろから聞こえた空太の、驚愕から怒気に移り変わる声で、頭のごく一部がどこか冴えた気がした。
それから一拍の後の、走るとも早歩きとも取れる幼馴染みの歩みにただ蛍は、「まっ…、」肩を鷲掴んで制する。
振り返る空太の底冷えするほどの怒りに満ちた瞳にその蛍の手は弱々しく下げられた。だがそんな蛍を見た空太も勢いだけは害したようで。立ち止まって道端の相手を睨んで対峙するのみに留まった。
「久しぶりだなぁ、まだ居たのか」
「あんた、どうして…!」
「不躾だなぁ。
やぁ蛍。お前も、まだ居たんだね甲斐甲斐しく」
「てめぇ、」
「空太、」
空太を制する声が震えている。下げられ、自分の服の裾を掴む蛍の震えに今更ながら気が付いた。
蛍を見やれば、死人のようにげっそりとした表情が痛々しく、無理に表情筋をひきつらせながら蛍は頷くだけで、ただ一言男に言い放つのは。
「おかえりなさい…先生」
男はそれで、微笑むのだった。
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