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「忘れろとは、言いませんがね」

 10年よりはもっと最近で、少し前の、ここ数年を蛍は回想する。

 歳のわりには背筋の通った、しかし、小柄で終盤は少し窶《やつ》れてしまった白髪頭の73歳が縁側で、優しく日溜まりのように穏やかな表情で紡ぐ言葉。「蛍は水辺で輝くじゃないですか」。

「しかしまぁ、綺麗な水と空気と葉がなければ生きられないのですよ。だから、忘れろとは言いませんがね。それでも貴方が生きている限りそれは、輝く源のはずです」

 それから浮かべる人好きのような祖父の笑み。

「百々《とど》のつまりは悲観してはなりませんよ、蛍。人は美しくはないかもしれない。それでこその底知れぬ綺麗な、輝きもあるものだと、私は言いたいのです」
「おじいさん、俺にはそれを受け入れる、池のような物が、どうにも泥濘んでしまっているような気がしているのです」
「泥濘は泥でしょう?掘ってみたらどうでしょうか。スコップが鋭利なら手でもいい。一人が難しいのなら、誰かにこうして話して、誰かと。
 貴方はやはりこう、内気であります。それはある意味他者を共有、許容しないということでしょう。それは確かに、難しい話なのですがね。私ですら、貴方と出会い、今に至るまでこうしていても、貴方を知れない部分はあるのですから」

 笑みは、やはり優しかったように懐古する。
 しわくちゃの、しかし穏やかな表情筋と、くわえた煙管と昇る紫煙は昼下がりに浮遊して、青空に吸い込まれたのだ。
 祖父の白い煙は後に月夜の葬儀を思い出す。蛍にはその時に泣けるような心境もなく、とめどない読経に近い心境が前頭葉を巡回していて。
 ただただ薬物中毒のように無心に懐古を巡り続けていた。想いも情景も、行き場もなく雨雫のように垂れ流すだけの、どこへ飛散するのかわからぬほどにずっと、ずっと巡り続けて。

 自分は最早なぜここに来て、この境地に立って書き留めているのか皆目蛍には行き着かない。とめどなく溢れる言葉はしかしいざというとき、口を吐いては出ていかない。

 さようならをさようならと言えないような事柄、現象がそこにあって心理を突く瞬間は日常にこんなに色濃くある。なのにどうしてその瞬間言葉というものは、頭の中を灰色の灰のように染めて遮断するのか、息が詰まって嗚咽のような状態になるのか、まだまだ蛍には理解が出来ない。

 しかし本当はどこかでわかっている、そう、回顧から産み出された想像力、それが気持ちや想いと同時発射して幾分か速度が早く言葉を待ち伏せてしまうのかもしれない。

 さようならと言えば別れを認めてしまうのだと。もういいよと言えば相手の表情がそこにある気がして、こんなとき君は果たして、そんな表情はどんな心理を物語るのかと、頭で決めつけてしまう自意識過剰さが蛍自身を踏み留まらせてしまっているのかもしれなくて。

 蛍にはそれを解放する勇気がない。
 これは正直な発想、空太が憎んでくれている自分の父、自分を殺そうとした人間と大差ないような気がしてしまうのだ。だから俺はこの人を、トラウマに思い、忘れられなくて恐らく捨てられない。
 彼がどう自分を思って練炭自殺を強いて逃げ延び、今ここにしれっと来ているのか、蛍には分かるような解らないような気がするのだ。

 多分これは彼の真面目な対応だ。向き合わなければ始まらない。君も俺もそう、解放するのは各々なのだが、そのきっかけは、自分にあると蛍は一人悟るのだった。

「先生、一つ、聞きたいの、ですが」

 驚くほどに情けなくも声が萎んでいた。自分の弱さは、言葉はこれかと辟易もする。

「なんだい、上柴さん」

 やはり、そうか。
 貴方は俺を。
 意地でも息子だと、言わないのか。

 そして興味はそこにあるのか。
 なるほど、少し気が晴れた。
 本当の心理は、悲しみは、一度どこかに忘れておこうと決めた。

「貴方はどうしてここに来たのですか」
「どうして?では君に問う。どうして君はここにいる」
「ここが私の家だからです」
「なるほど。こんな狭苦しい寂れた風景を、そう捉えて生き長らえる人間もいたものなんだな」

 刺さる。
 2センチ。

「私にとってここは広すぎます。何もない。だが捨てられない」
「流石は流れ着いた川の下から拾ってきたような、まぁ例え話だけれども、いつの間に食い付いてきた子供だけある。君にはここが安寧なのか。その感性はしかし間違っていない。俺と君の違いだな、蛍」
「…先生にとっては、ここはそんな所なんですか」
「どんな?」
「安寧でいうなれば泥濘、ですかね」
「直木候補だけある詩的な解答をどうもありがとう。そうですね、上柴さん。私にとったら泥濘、泥酔、昏睡の先にある血ヘドのような、水で洗い流したい回想です。
 這いつくばって己を甘んじてだらだらと、しかしながら私の父はそれを許さず、許容はしたがよく言えば放任。しかし精神病治療だと、それだけはやらせたがったクセに道を見せることなくあの男もだらだらとこんな陳腐な本屋を続け文を私に強要した。
 …若かりし私は生きる糧など、宛などもなく感性という壁にぶち当たっては己を醜態だと思い込み、追い込み書き上げ、しかしそれは特に好きでもないこと。なんのためにこうして意味もなくだらだら生きているのかと疑問を呈してもそれを許されずまた文机に向かい、しかし当てれば金が入る。
 人は堕落を覚えれば果てなど地獄ですよ。のめり込んでのめり込んで精神は擦りきれる。それも一種の文章と思考。こんなバカな話はない、作家など、堕落した人間がやるものです」

 霧が急に飛散した。
 靄は輪郭を正す。

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