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 凭れる重さが一人分。ぐったりとした君の事情に一瞬、思考が停まりかけるけれど。
 精練された、無機質で無感情な鉄の湿った音が静かにその空《くう》を裂いた気がして、空太の意識は恐る恐る、目の前の現実に引き戻る。

「蛍、おぃ、蛍!」

 ダメだ、呼び止めなければ。
 医者はよく言う。
 昏睡、混濁な意識にはひとつの刃物のような…
刃物のような。

「生きて、」

 ダメだ。
 どうしていつも出て行かない。
 いままで何も、伝えてこなかったからだ、こんな時、大切な言葉が、昏睡へ混濁してしまう。

「まだ、…嫌だ、」

 まずは。
 ぼやけた視界とぼやけた頭で必死に引っ張る、ない知識。

 どうにか寝かせよう。
 だがどうか、まだ意識はあるのか。
 呼吸だけは浅いが、ある。
 あと一歩ここで踏み出さなければ、そうしなければ。

「蛍…、お願いだ。一度力を入れられないか。
 俺は君と生きていたい、そのために、一度、」

 その、確実に息を吸いながら、吐きながら空太がゆっくり伝えた要求が蛍に聞こえたかはわからない。
 ただ唸ったような掠れた蛍の声がして、ほんの少し力が入ったのはわかった。どうにかしようと思うも一人では物理的に困難を極めた。

 目が合ったことに一瞬の皮肉や情けなさが過るが、光やら風やらの早さでそれは空太の頭を音を立てるように通り抜けた。
 次の瞬間に口を開こうとしたら、相手方は哀愁を帯びた微妙な笑みともつかない表情で、ゆったり、ただゆったりと歩み寄ってきた。

「君の父は私によく言った。『君はいつでも、受け入れず投げ出してしまう』と。
 真っ直ぐな男だった。君のように、なにも疑わず、唯一の友人として俺と…涛川裕次郎と関わりを持ち続けようとした」

 その、涛川裕次郎がふと、意識の薄れた息子を背中から抱える。離れる蛍の手が、冷たくなっていく気がして。
 それから目の前で裕次郎は自分の息子を床に寝かせ、赤くなった横っ腹に手を置いた。

「お前は易々と、俺の期待を…越えたな蛍。
 俺は彼の父親にそれを告げることは出来なかったし意味もわかってやれなかったんだ。多分、友人を、気付けなかったんだよ」

 浅い息、虚ろな目で父を見上げる蛍を見ている情緒が狂いそう。何がどうではない、これは一重《ひとえ》に、歪んだ美醜。知らない愛情を見せつけられ、不思議にも当人たちに自覚がないのだ。

「私は作家だった。だからこの感性では、人を見ることが、愛すると言うことが欠如するんだ。だから渇望し苦しみ、生きていることを投げ出す。
 しかしもう、いいだろう、蛍」

 床に転がった刃物をチラ見した父を。
 逃すわけにはいかないと蛍は、痺れた脳と左右どちらかの腕で、父の手を掴んだ気がした。

「せん、せ、には、はぁ、まだなにも…」
「…喋るな。死ぬぞ。
 医者を呼んでくる。君はここで蛍を呼び止めなさい」

 父が離れ行く。
 すぐに視界に飛び込むのは、友人の空太で、痺れて、先程まで父を掴んでいたはずの手は、温かくなっている気がして。

 蛍、蛍。

 血の飛び散った空太の髪。多分さっき吐いてしまったやつだ。そんな空太の躊躇った表情が見え、

 上柴先生。

 言葉を代え、君はどうしても俺をここに留めようとする。

 ケータイを、空太がその血に濡れた耳元に当て、泣きそうに笑うような心理がわかってやれず、ただただ手を、蛍の空いた左側に伸ばした。自分の手はこちらも血塗れだった。

 どうしてだろう。

「…さつきぃ、」

 電話の先はどうやら。
 空太が途端に顔を崩して泣き始めた。

 なんだよそれ。
 それじゃ本当に留まらなくてはならないじゃないか。

「たっ、助けて、さつきっ、ほ…蛍が、蛍がぁ!」

 しかもなんだよそれ。
 情けないじゃないか。

 思わず蛍は苦し紛れに笑ってしまった。
 腹の痛さが漸く身に染み、痺れて結局動けない。

「…らた、頼む…、」
「…え?なに?蛍?」
「しゃ、べんな…、痛い…」

 振動とか案外痛いもんなんだな、これ。でも、もう少しでそれも亡くなりそうだ。

「蛍、蛍ぅ!」

 電話越しからも何か聞こえる気がする。
 視界も霞んでいくような気がする。

「ごめんって、蛍、嫌だって、ホント、
俺もっと、君と、もう少し」
「あぁ…」

 君はそう。
 あと一歩、言えないやつだよ本当にさ。
 俺はいつもあと一歩、聞けないし、書けない作家だったよ。

 瞼が落ちた。
 頭が、脳が、急速に音でも立てるかのように、温度を冷やして、落ちていくようで。

「蛍…?蛍、ねぇ、ちょっとぉ!」

 まだダメだってまだダメだって。
 君のそれはあと一話でしょう。
 未完じゃないですか、上柴先生。
 いままでそんなこと、なかったでしょうが。

「あと一話くらい書いてよ、上柴先生ぇ!」

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