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明日が晴れやかだと言うのは微睡みの中にある幻想で陶酔だと、俺は少しばかり最近の過去まで、思っていた。
錯覚に似た夢のような現象であると心の中で言う彼方の人は、自身が作り上げた、それこそ『錯覚』と『微睡み』、むしろ『夢』であると気付いたのは、真っ白で透明な、あの霽月《せいげつ》のように澄んだ白い天井となだらかな真空パックの血液、そして君の泪《なみだ》を、見てしまったのが現実だったからに他ならなくて。
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目が覚めたときは、案外あの世が庶民的な場所、けれども馴染みの薄いような、白すぎる狭い箱のような空間であることに少し皮肉を覚えた。
違和感の二つ目とジレンマは、やけにしやすい呼吸と口元の邪魔な酸素マスク。視界の端にあった栄養材だかなんだかわからない液体は見慣れているようで見慣れていない、知らない薬品と、真っ赤な真空パックで。
そうか、そういった事情か。
しかし不自然に引き吊ったような腹の感触。そのあたりにある生々しい温もり。
冴えない頭で蛍は理解しようとしていた。
視線だけ右横あたりを見回せば、隣に空太が、人に突っ伏して寝ていて、蓮が腹あたりの布団のなかに両腕を突っ込むかたちでこれまた突っ伏している。その二人の間にさつきが、椅子に座り腕組をして寝ていた。
あぁそうか。
漸くあたりを見回す気になって、酸素マスクをずらして顔を動かしてみた。
機械が怖いくらいにごつい。こんなかたちで確実に『生』を知らしめられるのは、流石に人生初だ。
指には、これはこんなときには覚えがあるような『血圧計』。指に挟む洗濯バサミのようなやつ。
現実なのか、非現実なのかと言えば、現実だ。ただ、日常か非日常かと言われれば曖昧だ。そんな世界に、今自分はいるらしい。
だが目の前にいる友人たちの寝顔を見ればどうやら、これは現実で日常なようだ。一風変わっているが。その不思議な現象はどうやら自分が巻き起こしたらしい。
あれから自分はこうして、まあ生きて留まったようで。
「ふっ、」
一人、笑ってしまった。
どうしたって何がこんなに。
だがどうしようもなく、何故かは知らない、生理的なものかもしれない。涙が流れていくのは、誰も知らない。
そして漸く気付くことが出来た。
そうさなぁ。
ずっと、自分はこうして。
泣いてみたかったのかもしれないな。
だがどうにも偏屈だ。
どうにも一味足りない売れない作家をやっているからこれは人知れないのかもしれない。
だけどホントはどうだってよくて、わからなくてわかっている。心のどこかに閉まっておいただけだ。
それじゃいけないのかもしれないけど。
本当にそれが本物の真実かは皆目辿り着かない。これは恐らく作家だろうが画家だろうが売れようが売れまいが、血通った人間の心理のような気がする。これが偏屈なら、それでもいい。
あと一歩、感情も言葉も引き出せない作家だから。
「空太、」
自分が思っていたよりは声が掠れていた。
泣いていたのに、この現象に笑ってしまった。
空太はこんな掠れた声にすら、目を覚ましてくれた。
そして蛍を見て寝起きで微睡み、呼吸をしてから「あっ、」と漏らす。
それでいいんだ。そう。君のことは恐らく俺が。
「空太」
今度ははっきり言えた。腹が軋む。構わない。目の前の事情に空太は思わず呼吸を呑み込んで、そして立ち上がり、抱き締めた。
「蛍…、」
「…空太、その…」
二人ハモって「ごめん」と、一言だけ互いに同じ言語を引っ張り出した。
それに思わず空太は離れ、覗き込み、どちらからともなく小さく笑って、同時に泣いた。
「…ごめんなさい、空太、」
「…蛍、俺が、」
蛍が首を振る。
綺麗なもんだ、優雅なもんだ。
なんででも俺っていつも、こんなチンケな言葉しかない。
こんなときの、カメラかなぁ。
ダメだなこれは、撮りたくない。思い出なんかにしたくない。
だって今を生々しく、俺は塗り替えていきたいの。画家として、クリエイターとして、なにより、友人として歩んだ、歩む道をまだまだ見ていたい、振り返って、躓いて。
そこの傷や美しさは新印象派とかどうでもいいくらい、心に留めておきたいから画家やってんの。
写真なんてだから、逃げだよなぁ、俺。
「俺が悪かった。君も悪かった。
辛酸舐め合って、今回は、インスピレーション…。
ダメだダメだ。俺、やっぱなんか、上柴先生、そんな風に、なんか、言えない」
「うん、わかってる…。
空太、君も俺もそうだ」
あぁどうしてなんだろう。
「だけど、だからシンプルに。
もういいよ、空太」
「…蛍?」
君との未来はわかりきっている。
君と共にこのままこんな風に、叫ぶような、飲み込むような創作を。
何より自分は最早。
林さん、あんたの気持ち、でも。
「でも、わかんないね…、やっぱり…。
しがみつく勇気がただないクセに、でもどうしてこんなに全てを」
なくしたくないんだろう。
こんなことをして、こんなところまで来て。
あと一歩で自分を殺す勇気すらない、捨てられる度胸なんてものもなく全てを、巻き込んでなにがクリエイターなんだろう。なにが仕事で感性か。
「…全部欲しくないのに」
「蛍、」
心を殺してはいけないらしい。
単純な仕組みだった。人の出来方はそう、初めから皆同じはずなのに。
でもだからこそ。
手離したくないからこそ。
「…あと、もう1話だけ、付き合って」
「…それは」
君はもしや。
あの男と同じ境地か。
「…いいよ、上柴先生」
それは絶対にさせない。
蛍が哀愁帯びて微笑んだ。
俺は言えないかもしれない。
けどねぇ、
誰かを動かす画家でありたいというのをいま、目標にした。
この一作だっていいさ。
打ち込んでやるよ、君の未来に。
二人のやり取りを、密かに聞く友人夫婦二人の心境は最早、
入り込む余地はなし。
あとは好きに、やってくれ。
これで気持ちが一致した。
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