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 蛍が書類を持ったまま、店の前で腕組をして仁王立ちで二人を出迎えれば、芸人男、粟谷宗一の息子である空太が蛍の足元を見て溜め息を殺したのがわかる。

「上柴先生ぃ…君の出で立ちはなんなんですかそれ」

 確かに。
 部屋着である練色《ねりいろ》の浴衣、申し訳程度に、多分箪笥から引っ張ってきたのであろう黒紅《くろべに》の高そうな帯、開きすぎた懐にはベージュのVネックのヒートテックが覗く。足元は黒いクロックス。
 そしてあれか、文机に突っ伏して寝たのだろうか、前髪が寄って寝癖である。

 とてもじゃないがこんな出で立ちで先ほどの、どう見てもちゃんとした職に就いていそうな年上に会ったのかと思うと、ちゃんとした営業職に就く空太としては溜め息も吐きたくなる。君、どうしてそう無頓着なの。

「いやお笑い芸人に言われたくないんだけど。なにそのネクタイ。どう考えても床屋だよね」
「誰が売れない芸人だよっ、職場でもセンスないって言われたよ!」
「蛍さん今起きたんですか?」
「そうそう。原稿詰めてて。そこの鬼営業が休まずいっぱい仕事を放り込んでくるから寝る間もなくてね」
「よく言うよ。俺だって休みたいわ」
「直木で売れてるようですね。『蜉蝣《ふゆう》』」

 そう。実は。
 あれから、あの病室で最後の1話を書き上げ、短編連作を終了させた蛍、いや、上柴楓は。
 その短編集、というよりは短編連作集で作家を辞めようとしていた。その心づもりで書き残した。

 はずだった。しかし今回は。
 たまたま今回の『蜉蝣』、直木賞に選ばれてしまうという、作家デビューから初の奇跡が起きてしまったため、辞めるに辞められなくなってしまったのである。

 とくにこれを書け、という要請はない。
 だが月刊一本の仕事が、空太のヘタクソな営業を抜きにしても、月刊二本、週刊一本くらいの、まぁ、『蜉蝣』より前の仕事ペースには戻った。
 問題は空太のヘタクソな営業だった。

「そうそう上柴せんせー、明後日|神保町《じんぼうちょう》に『講演会』と言う名のサイン会ね」
「はぁ!?」
「仕方ないでしょ、売れちゃったんだから」
「ふざけるなよマジ、お前クロックスどうする気だよ!」
「靴買いに行こう。ついでにスーツは…お前俺のでサイズ合うかなぁ?」
「嫌だよそんなの、だってどうせ“そらた”さんもお出ましだろ?そんなの芸人じゃん、売れない芸人じゃん、嫌だ絶対」
「ちょっと我が儘言わないでくれる?じゃぁ蓮にコーディネート頼む?」
「嫌だよあんなアパレルクソ野郎」
「なんかどーしたの、君そんな我が儘な子じゃないでしょ?仕方ないだろ大丈夫!一本8000円で取ってきた2時間」
「AV女優か俺はぁ!いい、着物で良い!」
「まぁ、やめなさいよ高校生の前ではしたないなぁ、あと俺が恥ずかしいでしょ!」

 はっと気付いた。
 そうだ熱くなっていたが男子校生、東雲翠《しののめあきら》がいた。
 ふと見れば翠はその場に自転車を停め、二人を見守るでもなく、しゃがんで、いつの間に来たのか足元でかぐやを撫でていた。

「あっ、」
「かぐや」
「久しぶりに来ましたねかぐやくん」

 最近わかったことだが。
 かぐや、オス猫だったらしい。いつの間になついていてたまに気まぐれで家に来ていたから気にもしなかった。翠が最近発見したのだ。

 そして蛍の猫アレルギー疑惑があったため、なんとなく、かぐやの遊び相手は翠がしてくれるようになったのだが。

「…翠くん。非常に言いにくいんだが。
 今までありがとう。俺、猫アレルギーじゃなかったよ」

 翠の微笑ましい光景を見て蛍が、言葉通り非常に言いにくそうに告げた。
 翠は顔を上げ、空太も蛍を見つめて思わず二人ハモって「えっ、」と漏らす。

「…あれ、なんだろその…。
 なんか蕁麻疹《じんましん》。けど猫じゃないらしい」
「え、なにそれ」
「ちょっとよくわかんない」
「うーん…。
 あの、アルコールと薬といろいろ」

 非常に言いにくそう。
 なるほどそういった事情かと空太は納得した。説明する相手が不登校っぽい高校生、これに蛍は難航しているらしい。

「あれだよ翠、五月病行き過ぎ症候群」

 翠は冷めた目で空太を見る。そして一言、「センスがないっすね」と返した。

「なるほど察し。
 俺もよくありましたからねぇ。
 あそうそう。俺、劇団系の専門、行こうかなと思うんです」

 しれっと話題変換し、突然言う翠に、今度は蛍と空太が一瞬間を置き、「へ?」だの「え?」だの返す。
 果たして、それはどういった心境の変化なのか。

「いやぁ、蛍さんがいなかった間、たくさんさつきさんにシェイクスピアを勧められて。案外読んだことなくて。
 読んでみて、やっぱり舞台というか、やってみたいよなぁと思って、一緒に演劇の本も読んで、本当に微力ですけど、まぁ読んでみて。やってみたいなって」

 それはなんて。
 夢を持っているんだろう。
 語る本人は生き生きとしている。

「…本当はすぐに劇団入りたいなぁとか思ったんです、気持ち的には。でもやっぱり俺、まずはちゃんと昼に学校行って、甘くない舞台の世界も学んでからかなぁ、と思って。だから、五月病、卒業です」
「…なるほど、いろいろ納得した。
 大人だなぁ、翠」
「そうか…そんな時期か…」
「だから少し、来年から今よりは来れなくなるけど…。
 そうそう、俺今日、シェイクスピアと『月夜』、買いに来たんです」
「あぁ、そう…」
「上柴先生の本なくなっちゃうからねー。早く買っとかないとねー」
「あとそらたさんの画集も!」
「へ?」

 実は。
 今回の上柴楓、直木賞記念に、そらたもちゃっかり画集を一冊出したのだ。表紙やら、扉絵やらと、プラスアルファで乗せてあるやつ。
 相乗効果かなんなのか、これもまた、売れている。

「俺の画集?」
「はい」
「えーマジ?」
「マジですよー。俺そらたさんの絵、好きですよ?」

 そう真っ直ぐ言われてしまうと。

「ありがと〜照れる〜」

 にやにやして気持ちが悪い。

「調子に乗ってる。
 確か全部あるぞ。売れてる作家でもここ、売れない本屋だから」

 そう言って蛍は店に入って行く。
 確かにその通りだ。口に二人とも出さないがそれ、すごくセンスある痛烈な自虐だなぁと思い、二人は顔を合わせて笑った。
 翠が立ち上がると、自然とかぐやが蛍の後をついて行き、追い越して店の中に入っていった。

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