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 翠はシェイクスピアを買って読み、
空太はスケッチブックに何かを書き、
蛍は原稿用紙に万年筆を走らせる。
 途方もない、少し前から起きている日常という現象がここにあり。

 “夕焼けこやけ”が流れる前には翠が、「また明日」と言って学校に向かう。

 結局のところは、変革などは起こりもせず。変わったところで昨日と今日と明日と。例え遡っても明日が来て、明日と今日の違いなど、天気くらいなものなんだと最近蛍は気が付いた。

 何に怯えたところで現実。
 何を恐れたところで未来は訪れてしまう。望んだ形であれ、望まぬ形であれ。

 そういう風に世の中は、日々は出来ている。ありし日に拘ったところで、いつか自分の行方がわからなくなったら曖昧になってしまうのだと、今ならあの背中に言えるかもしれない。

「『夕日に向かう|陽炎《かげろう》のように』かぁ…。いいねぇ上柴先生」

 ふと、空太が茶化すでもなく、はたまた褒めるでもない口調でそう言った。我に返り番台から店のテーブルを見れば、空太は新作、『蜉蝣』を読んでいた。

「そして俺のこの章の扉絵となにより表紙、素晴らしいと思わない?」
「…販売まで“蜉蝣”がなんだか知らなかったくせにお前よく言うよ」

 何せ、空太は申し訳程度にしか本を読まない。今回の作品は挑戦作だった。そんな野郎には正直、難しい単語がわりと並んでいるかもしれないが。
 それが偏屈作家、上柴楓的には楽しくて仕方なかった。何せ、この小説は。

「全く…。俺がこの一冊をね、てか短編一編一編にね、言わなかったけどどんだけケータイ辞書使ったと思ってんだよ」
「そこ携帯かよ。お宅の辞書使いなよ」
「嫌だよ時間かかる。蛍は知らないだろうけど今時のケータイはね、翻訳だって出来るんだからな」
「は?何言ってんの?携帯辞書でしょ?電子辞書、つまり持ち運びに便利なあの、携帯式電子辞書ってことじゃないの?それなら俺だって中学からあるよ」
「は?違う違う。ケータイ電話だよ。しかもその辞書、使い方わかんなくて君昔ぶっ壊してたじゃん」
「はぁ?なにそれ。
 またまたぁ。俺が機械音痴だからってバカにしないでよ。ケータイ電話は電話でしょ?電話をするものでしょ?辞書なんていらないじゃん」
「甘いなぁ…、ほら」

 手招きされたので蛍は仕方なく番台から降りて空太が見せる“アイフォン”を覗き込んだ。
 最早それは電話ではなかった。

「なんだこれはぁ!」
「アイフォン」
「無敵じゃん」
「そう。ぶっ壊れやすいけどな」
「弱いじゃん」
「そうだな」
「却下。それじゃ強盗入られたときとか刺されるときに身を守れない」
「どんな辞書の使い方だよ。第一強盗入らんだろここ!殺傷事件はもうやめて!俺が悪いんだけど!」
「はいはい」

 そう冗談で言い合えるようになった。しかしやっぱり間は少し生まれてしまう。まだあの日のことは、日が浅い。

「…蛍…、」

 なんて、笑い合った後に少し切なそうに言って、それからやっぱり続けない。君はそう。だから、つい。

「ふっ、…ははは!はいはい、悪かった悪かった。うんはい」

 笑ってしまった。そんな蛍を見て空太は、唖然とするのだ。

 前より少しお前、性格よくなったよなぁ、なんか。言わねぇけど。口数もちょっと増えたしな。
 …嬉しいけど。

「あ、そうそう。空太、原稿」

 そう言って蛍はふと、物臭をして番台へ、わざわざ上がることをせずにひょいっと手を伸ばして、と言うか身体を乗り出して原稿用紙の束を器用に取り、ぞんざいにぽいっと空太に渡した。
 どれどれと覗いてみて、まず、職業柄原稿用紙の端の名前を確認する癖。これで驚愕した。

林道弘

 タイトルを見れば『池の浮遊物』とある。実に、40枚ほど、短編だろう。
 それと共に、なんだか、蛍の戸籍だとか生まれてすぐだかいつだかわからないようなDNA鑑定の用紙などもある。

 なんだこれは。
 蛍の顔を見れば、先程の笑顔とは打って代わり、真面目で、哀愁があった。

「…所謂、暴露本だ」
「…はあ?」
「だが、それもどうやら、虚言のようだ。
 まぁ、読んでみたら?」

 それだけを空太に言って蛍は番台に戻る。

 仕方がない。
 手は少し震えるような感覚だが。
 自分から見える蛍はこれをどんな気持ちで読んだのか、また今、自分に託したのか。
 読まずにはいられないような気がして。

 一気に40枚の原稿用紙を読んだ。
 読んでみて、立ち止まって、また読んで。
 読み終わったときに顔を上げれば。
 蛍が番台に頬杖をついて、綺麗な、漆黒の瞳で、怠そうな成りをして、しかし視線だけは真剣に自分を捉えていた。
 目が合えば、目を反らして番台に置かれていた薬の瓶に視線を落として空いてる手で弄ぶ。

 その瓶の中身。
 実は砂糖菓子とサプリメントと胃薬だと、あれから蛍を問い詰め、発覚した。
 睡眠薬やらなんやらは、別の、もっと人目につかないところに隠してある。例えば文机の中やら、番台の引き出しやら、箪笥の底やら。

 蛍も蛍で充分に、猫のような生態系だと空太はそれを聞いた時に思った。
 ある意味その、見える位置にある方の薬の瓶も、精神安定剤なのかもしれない。死ねないように、安定するように、戒めのように。

「蛍、」

 呼べばまた、何事もないようにさして感情も込めない表情で蛍は空太を見やる。それに空太は、なんとなく魅惚れてしまう懐古の自分を痛感するけど。

「…遺作だなぁ、こりゃ」

 そう言った空太の一言に。
 一瞬蛍は頭を巡らせて、その意味を汲み取ったら切なくはなるが、皮肉も感じ取って、少し、笑ってしまった。

 本気で空太は、涛川裕次郎を殺したらしい。
 まぁそうだ。自分だって結局は、彼なしで充分に、生きられたのだから。

 ただ、捨てられず縛られて拘って偏屈に生きてしまった期間があった、それだけの、ことだったんだ。

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