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夕飯を拵える生活音を聞いて、蛍は久々に人と過ごしている、乾いた豊潤を覚える。
再び注いだ焼酎が体の隅々まで染み渡るような、こんな感覚に非常に似ていると感じた。
自分の人生は焼酎となんら変わりはないのかもしれない。なんなら意識の違いでしかないのかもしれないなと、ぼんやりと思えるくらいにはほろ酔いだ。別に楽しいわけじゃない。ただ自分はわりとアルコール中毒の分類ではないかと時たま思うのが少し、哀しい。
しかしこのほろ酔いは、気分が良い。
つらつらと、しかしすらすらと走らせる筆は思いと比例するように軽快だ。何なら狂気を孕むように洗礼されたその感性。頭の方がワンテンポ遅く着いて行く。
漸く戻ってきた、上柴楓だ。
頭の中はそう、今はぼんやりとした空間だ。
上柴楓のプロットは、基本的にはすべてを作らない。物語の構成は何パターンかある。今回のような短編連作となると、ひとつのテーマを決める。あとはラストと、テーマに重要なワードとラストに必要なシーンだけ決める。後は一話一話、重要シーンを組み込んで筆が進むまま書く。
どちらかと言えば上柴楓は多分、長編の間延び作家だ。一話完結がわりとぴんとこないのも事実だが、まとめるのは苦手ではない。現に何本も短編は書いてきた。というか短編集らしき小説は出している。
多分プロットの作り方だと自己解析をする。
上柴楓はラストしか決めず途中の伏線をラストに向けて読者が拾えるような登場人物を作る。これが恐らくは長編向きなのだろう。
これを短編、つまりは、一話完結でやるには意外にも長くなる。毎度それで添削して、間延び感は消えたように洗練されたガラス細工のような文章になる。そしてこの物語構成プロットで行けば、案外書くことが短く済み、楽だ。
しかし短編の連作の難しいところは、なんだかんだでどこかその短編に関連性を持たせなければならないところである。
いや、まるっきり違う一話一話を同じ主人公が繰り広げればそれだけで関連性、短編連作と言う見方もあるが、上柴楓は、涛川蛍はそれをナンセンスと捉える。それは最早長編でも出来るだろうと。
短編連作とは何か、長編との違いは何かと問われれば多分そこである。
大筋のテーマなり主人公なり、とにかくブレないものを決める。それを中心に関連性がある違う話、違う主人公であるのが短編連作の面白さだと上柴楓的には訴えたい。
と言うわけで今回の短編連作のテーマが「雰囲気」という、漠然さに作家、上柴楓が立ち往生してしまったのは言うまでもない。いや、これは短編連作に限らない。
なんだ雰囲気。何雰囲気だ。殺伐とか哀愁とか、団欒とか懐古とか、色々ありすぎてわからない。わからなかった。
しかし空太が言った「上柴楓らしさ」それは何か。そしてこんな漠然としたテーマの意味。
空太は言った、自分が描いたただの絵の描けない落書きを、「味がある」と。
自分をけして貶さない幼馴染みの言う「味がある」。
この、味とは何か、俺には描けないよと画家が言うその心理は、何か。
上柴楓の味とは何か。雰囲気とは何か。短編連作とは何か、短編とは何か、長編とは、何か。
真髄と陶酔の素材の中で浮遊させ抜粋し組み立てていく文章。頭の中で思い描く書き出しは一瞬迷う。しかしなんとなくは、上柴楓の中で吹っ切れた。
芯を最早上柴楓にしてしまう。雰囲気は上柴楓。要するに、もう雰囲気小説という言葉を一度捨てよう。しかし隅には取っておく。所謂付箋紙というやつだ。
さてさてどんな話にしようか。
と、思いながら蛍は筆を走らせる。
「出来たよ」
あぁこの声は例えるなら月夜と言うより、深海に近いかもしれない。はっきりとはくぐもっていない、不明瞭だが綺麗な、漆黒。そう、これがぴったりだ。
「蛍?」
蛍と言うよりは夜光虫という表現。そうだ、夜の海のシーンから始まり、夜の海のシーンで終わるのはどうだろう。主人公は、
「楓、」
はっとした。
蛍が現実に戻れば風景は見慣れた居間で、ここは自宅だ。
慌てて書き始めた原稿を整えちゃぶ台を片付けると、空太は茄子と鶏肉の炒め物と今朝ウメさんから頂いた煮物を持って自分の目の前に座った。
「ごめん、」
「いいよ。飯は?炊けたけど」
「いらない、あるから」
蛍が焼酎の入った陶器をかざせば相手は少し呆れたように口元を綻ばせて溜め息を吐く。
「〆に食ってください。しばらくお前食ってないだろ。田村さん渾身の米を」
「いやぁ…」
「減ってねぇぞ、あんまり」
「あぁ、はい…」
また空太は立ち上がり、今度はご飯茶碗を二つ、炊いた白米を入れて持ってきて胡座をかいた。片方は蛍へ寄越される。
取り敢えず蛍は一旦全てを片隅に追いやり手を合わせ、「いただきます」を言ってから夕飯に手をつけた。
空太もそれに習ったかと思えば、いつの間にやら用意したらしい手元のグラスに、四合瓶のウィスキーを開けて注ぐ。
いつの間に買ってきたのか。コンコンコン…と音がする。
少し匂いを楽しんでから口に含むその空太の姿が酷く鮮やかで、現実と妄想の境界を見た。
そうだ、空太だ。
途端に安堵して蛍は、漸く微笑んだ。
その蛍の笑みが儚くも美麗だと、そんな陳腐な言葉しか浮かばないなと空太には思えた。
本当はもっと壮大な衝撃を受けると言うのに。俺は言葉を知らない。
何を思ったのか当の蛍は、陶器の中身を煽る。蛍の喉元の透いた血管は自分には表現出来ない。この、官能とも言うべき微睡みは視覚の筈なのに、文章の方がダイレクトに伝わる。写真をフォーカスしようにも、恐らくは伝わらないだろうとぼんやり空太は考えた。
そして面白そうに、まるでいたずらっ子のような表情で蛍がウィスキーの四合瓶に手を伸ばすまで思わず、言葉で言うなら空太は見惚れてしまった。
蛍の手が伸ばされて咄嗟に空太の理性が脳に言葉を掛けた、「おい、」と。
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