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 ふぅ、と抜けた後に言われる「好きだよ、伊織」が頭の中で靄になる。

「…もっと、さ」

 汗ばんだ、いや汗かもわからず肌に張り付いた髪を優しく撫でるように耳に掛けた光敏は「後ろ、行こっか」と言って口付けてくれる。

 本当はそう、

「あのね、良いもの持ってきたよ」

 頭がぼやっとするのに。

 伊織が座席の間から後部座席に移動している間、光敏はダッシュボードから無邪気な顔で何かを取り出した。

 ボーッとする。

 後から後部座席に移った光敏が子供のような顔でその、丸い物体を見せてくるのに「えっ、」と驚愕した。

「奥さん、こうゆうの嫌いでさ。一回やってみたくて」
「…は、」
「はははっ、」

 怖い。

 「待って、ホントに、」と言うのも押し倒されて、「きっといいよ、」と子供のような声で言うのが。

「ねぇ、見てみたいな」
「みっくん、」
「伊織もないでしょ、きっと」
「…めてっ、」
「どうして?」
「…そんな、嫌だよ普通に、」
「大丈夫だよ」

 怖い、おかしい。

 引き裂かれぐちゃぐちゃにされるように身体が恐怖を、感じた。

「あのね、桝くん」

 少女の頃の、自分が。まるで映画のカメラで、上から眺めるような世界で。

「…初めてなの」
「それはよかったな」

 制服のシャツに、優しくて暖かい彼の手が入って。

 沙紀は後から「やっぱりそうだったんじゃん」と伊織をなじった。

「聞いた、言ってる、あいつが。…あんた、初めてだったんでしょ、」

 …頭が真っ白になって。

「あんたなんて都合良く遊ばれてるだけだよ、だって私、初めてじゃなかったもん、」

 痛い。
 沙紀の涙を堪えた顔、それから叩かれた頬に。

「…別れてやったよ、このクソビッチ!」

 なんて?

「みっくん別れたって、」
「あんたのせいでね、」
「何言って、」
「浮気されてたなんて当たり前でしょ、」
「え、どういう…」
「知らなかったの?でも前から好きだったんでしょっ、」

 あんたはずっと悪口ばっかり言ってたのに。

「…別れてなかったの?」
「はぁ?
 じゃぁ聞くけどあんたら付き合ってんの」

 …辻褄が合った。
 好きだとも、付き合ってとも、一度も言われたこと、ない。

「…わかんない、わかんない、」
「わかんないって、」

 ボロボロ無様に泣けてきた。
 「えっ、ちょっと、」と言う沙紀の驚いた顔。

 そうだ、別れたって、誰から聞いたんだろう、そもそも。あんなに沙紀は悪口を言っていて、「別れよっかな」だったのかもしれない、もう、わからない。

「伊織?」

 電子音が止んだ。
 そうだ。

 伊織は咄嗟に光敏の、沸騰しきった横っ面を叩いた。
 湿った空気に、乾いた音がする。

 驚いたように頬を押さえる光敏は、本当に昔から変わらなくて。

「最低っ、」

 泣けてくる。

「…あっ、」
「痛い、」
「あっと……、」

 唖然としてから「ごめん、」と謝る光敏に「勘弁して」と冷たい言葉が出た。

 はっとしたのか、それから「ごめん、ごめん伊織、大丈夫?ごめん、痛かったね、ごめん、」と狂ったように言う光敏に、冷めていく。

「…昔から変わらないじゃん、」
「ごめん、」
「痛い…、」

 痛い。

「あんた、なんか…っ、あんたなんか、」

 …痛い。

「…大嫌い」
「伊織、」
「…みっくん、」

 驚愕の顔をした桝に、「あのさ」と続ける。

 あぁ。
 好きだっただなんて、いま完全にバレては、意味がない。

「…奥さん、大切にしなよ。みっくん、優しいけど、どうして間違うの」
「…あぁあっ、」

 桝は静かに、気付いたように涙を流した。
 …この人、よくわかんない。

 それからすぐに桝は泣きながら「ごめんっ、送るよ、」と運転席に戻った。

 …そうか、終わったんだ。

「…ごたんだ、駅に着いたら…起こして。ちょっと…立てないから…」
「…わかった、」

 私が悪いのに、本当は。

 車を発進させた桝はふと、「どこで間違えちゃったかな…」とポツリと言ってタバコを吸った。

「どこかで、やり直すとしたら」
「……私が、始めに言えば、よかったんだよ。沙紀にも…、桝くんにも。好きだよって」
「……俺だってそうじゃん、それ」
「違うでしょ」

 違うでしょ。そう、違うんだ。それでいい。

 五反田駅まで黙っていた。
 が、痛くて眠れなかった。
 早く、言えばよかったのに。

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