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空気が真っ白だ。
天井や壁も真っ白。
格子が茶色。
カーテンは白か、灰色なのか。
ふんわりと、風がカーテンに語りかけているらしい。どうやら網戸は開けたまま、昨日は寝てしまったようだ。
今何時だろうと、見てみようとうつ伏せになりスマホに手を伸ばそうとして驚愕した。
シングルベットの枕元にあるコンセントに繋がれた充電コード。
そのすぐ側で、刃が出しっぱなしのカッターナイフと途中で裁断されたそれに、繋がれてはいる、ぶん投げられた画面の黒いスマホがあった。青い本体。
カバーは特に無い。
またやってしまったかと、一人小さく溜め息を吐いて、恐る恐る、スマホの横についている電源ボタンに震えた人差し指を伸ばす。軽く押せばまだ暗い。ダメ元で長押しして漸く再起動され、少し明るくなるケータイ。
よかった、それほど時間は経っていない。
少しだけ再起動を待っていると、全ての機能が動き出すまでに時間はわかった。
8月20日、16時38分。
そうか、じゃぁもうお盆が過ぎた残暑か。
柄にもなくそう思ったとき、ふとなんとなく、微かな、慌ただしい音が聞こえる気がした。ベットから、開け放たれている引き戸のリビング、その向こうにある玄関を、顔だけ出して覗いてみる。
手元のスマホを覗けば、左上の小さなランプがメールの受信を告げていた。
そうか、多分。
音は足音として近付いてきた。開け放たれた、玄関とリビングの扉。そこから見えるだろう人物を予想して、俺は怠く、またベットに仰向けに寝転んでスマホを枕元に投げるように戻した。
「ーー、たっ、」
多分、俺の名前を呼んでいるのだろう低い、しかし少し、上気した声。
「…ゆた、」
バタバタと耳元で聞こえた音。引き戸を掴み、荒い息で寝室を覗き込んだ柔らかいだろう色の、癖っ毛。利き手にはビジネス鞄。
顔を見るや、目に見えてわかるように男は一息大袈裟に吐いてビジネス鞄を落とし、その手で首元の、細く白いネクタイを緩めた。
しかしふと、また俺の方を見て手を止めた。恐らく目線の先はカッターナイフと充電コード。仕方なく俺は上半身を起こし、多分聞き取れないだろう声を発してみる。
「…にしに来た」
自分の声すら水の中のようだった。
完璧なる、寝起きの低血圧と突発性難聴だった。
「…なゆた、」
ゆっくりと話す男の低音は聞き取れた。
俺の名だった。風折那由多《かざおれなゆた》。皮肉に育った、悲痛な名前。
ただ何もなく男を見つめていれば、男は黙って窓を見る。スーツジャケットからまだ新しいタバコを取り出し、ベランダを指差す。
俺はタバコを吸わない。
だが了承して頷いた。
ベットから降りようとすれば、いちいち手を差し伸べて来るのだが、構わず一瞥し、勝手に立ち上がり勝手にベランダを開けて手すりに両腕をついて凭れた。
三階からの景色が茶色か、水色か、今日は曇天。湿った匂いがして酷く不安定で。朱は射さないようだ。
後ろでカラカラと、窓を閉めた音がした。漸く日常を見る。隣に置かれた嗄れた立て置きの灰皿と、灰皿の向こうに背中で凭れる、多分灰色のスーツを着ている長身の年上。見上げるのも面倒臭いので黙ったまま見慣れた景色を見て風に吹かれている。
風に吹かれたまま、ふと俺の薄手の七分パーカーに被ったのは、男の香水、と言うより消臭剤の甘い匂いがしたスーツジャケットだった。
「…メール、したんだけど」
聞き取れた。
そよ風のような低音だった。
「きのう」
「…ねてた」
「あそう」
「生きてる」
「みたいだねぇ」
それだけの会話。
疲れる。
「那由多、」
「なに」
「また、耳、悪いの?」
「…うん」
「やっぱり」
横を見ると、
わりと薄い色に見える、くっきりとした一重で見つめられていた。口元の笑窪が深い。タバコの煙が綺麗に上に登る。
「…困ったね」
「…何が」
「耳鳴りは?」
「しない」
「あそう」
「用事は、」
「仕事、持ってきた」
聞こえなかったことにしよう。
そっぽ向いた。
「だから、連絡取れないと困る、俺」
再び顔を見れば、またにやっと笑う。
「…なんの仕事ですか」
「サンプル置いておくから。治ったらね」
「いくら?」
「俺の劇団」
「…わかった。一本?」
男は微笑んで頷いた。
治ったらということは、
「あまねさん」
「なんだい」
「筆談でいい?」
また頷かせる。
彼との会話は大体これで、成立する。
御波雨祢《みなみあまね》。
歳が離れた俺の唯一の、親戚である。関係で言えば、ハトコにあたるらしいが、ハトコがどんなものかを俺はいまいちわかっていない。
字面で書けば再従兄弟。親の従兄弟の、子供。この関係はどうやら、親戚最後の砦。俺とあまねの、例えば子供たちがこの世に存在したとしたら、その子供はもう、法律上親戚には当たらないらしい。
それくらいに、遠い親戚なのである。しかしそれが、俺の唯一の血統であるようだ。
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