2
タバコを揉み消した雨祢は目で合図し、それから口許で「風邪を引くから」と窓を指して言う。
本当は少し暗い、この嗄れて汚れたような灰色の空気に犯されたい。タバコの副流煙があれば尚更それは、綺麗な日常に見えるのだが。
そんな俺を慈悲深い目で見てくる親戚は癪である。仕方なしに頷いてスーツジャケットを返してリビングに戻る。
後ろから「寒くないのか」と聞く親戚の心理が理解できない。
「パーカーにハーパンとか。そろそろ秋だぞ」
聞こえないフリをして大袈裟に首を傾げれば、頭をガシッと掴まれた。
「寝癖もより酷いな。ゆるふわを越えてバイオリンの人だぞ」
大いに結構。
無視をした。
「てか…前髪弄ったか?」
バレた。
「すいた」
「なんでよ」
「邪魔」
「売れないバンドマンみたいだよそれ。変なポリシーを感じるわ最早」
わからんわ。
つか、自分が勝手に人にパーマかけたくせによく言うわ。
「引きこもりにはんなもん無いわ、てか聞き取れない、筆談筆談」
「嘘つけ。ここまで来るとどっち?右?左?」
あぁそう言えば。
耳をすませる。
…右だな。
「わからん」
「右?」
何故わかる。気持ち悪いな。
「不便だな」
「…なんでわかるの」
「なんとなく左で聞こうとするから?まぁ気付いてないよな。ま、いいや聞こえるなら。スピーカー左ばっかにしないでね」
「…いや、こっちも」
頭が起きてきたからまぁまぁ大丈夫なんですけどね。
「気持ち聞き取りづらい」
「多分利き耳が右なんだろ。仕方ないな。
急にか?原因は?」
大いに覚えはある。
「…自律神経の乱れ」
「はいはい、女子かよ。
邪魔ならまずは髪の毛切ろうか。しばらく来ないうちに君は堕落するなぁ、」
余計なお世話だ。
置きっぱなしにされた鞄を拾ったついでに、ふと目についたらしいスマホの充電コード。雨祢が肩を落とすような、溜め息を殺したのが見てとれる。
自分のなのか、鞄から充電コードを取り出し、今まで刺さっていたそれを抜いて差し、勝手に俺のスマホを充電するもんだから厄介だ。
流れ作業のように、カッターナイフの歯を眺めてからカチカチとしまい、ポケットに入れる。
しかし雨祢は何も言わない。
ただ、洗面台を促されるので気まずさに仕方がない。先を歩けば鞄を後ろでごそごそやってからついてくる雨祢がいる。
仕事道具のひとつである、それ用のハサミを持ってきたようだった。
大体俺は髪の管理を雨祢に任せる。特に執着がないので、最早実験台のような気持ちで雨祢に付き合うのだ。
立て掛けてあった折り畳みの椅子を開き、鏡の前に置いて促された。雨祢が以前に買ってきた髪を切る時用の傘、というか雨合羽というか(正式名称を雨祢から聞いたが、覚える気が毛頭ない)を肩に掛けられ、髪をはらわれる。
確かに、結構伸びた。
「肩上くらいにしよう」
「また?」
「その方が弄りやすいじゃん」
そう言って、髪をすくって眺めながら、その辺に置いてある霧吹きをひょいっと取って丁寧に手元の髪に吹き掛け、ポケットからハサミを取り出して入れていく。
元来、血統的に俺と雨祢はわりと癖っ毛のようだ。しかし俺はどうやらそれは受け継がなかったらしい。
しかも雨祢いわく、俺は髪質が太いらしい。だから、切りやすいが、パーマを掛けたとき、やりにくいと言われた。
だが、
「やっぱり一回弄ると今度は戻らないね」
だそう。
ちなみに雨祢の本業は、そんな感じで美容師だ。美容院というより、俺の中では“床屋”に近い気がしてならないが、ヤツの中では“スタイリスト”らしい。この辺の違いは正直ググってもよくわからなかった。
「あー、お前が嫌だとか言うから切るところだけ濡らすけどさぁ、最早これは一回全部濡らしたいけど。またスフィンクスになるよ」
「…めんどくさいなぁ」
「大体なんでこんなにバイオリンの人なんだよ、俺ゆるふわにしたよね」
「2日くらい寝てたからじゃないの?」
「じゃないの?って知らねぇよ!連絡取れないんだからさぁ!はい!バッチいし終わったら風呂入ってきて!」
「はいはい」
全く煩いなぁ。
小言を言いつつじゃきじゃきと、音を立てている。なんなら鋤き鋏まで使い始めて。
なんだかんだで肩くらいまで綺麗に、とまではいかないが揃っていくのが見える。多分所々揃ってないのはパーマとなんかのせいだ。髪を洗って乾かしたらジャストなんだろう。
「今回はなに?感電でもしたの?」
「は?」
「充電」
「ああ。いや、覚えてない。
多分あまねがうるさくて切っちゃったんじゃないの?」
「じゃないの?じゃなくて。どーりで電話もメールも繋がらないわけだよ昨日からだよ?俺急いで職場からここ来たわ」
「大変だね」
「ホントにね」
なんで切ったか、少しだけ覚えはある。
「…嫌なことあったわけじゃないのね」
「…多分。覚えてないから」
本当は違う。
「君の多分は大体嘘だよな。まぁ話したくないならいいけど、どっか切ったでしょ。少し血付いてた」
しかしバレるもんで。
「あまね」
「ん?」
「…指輪どうしたの」
取り敢えず違う話をしようか。
結婚指輪がないことでも、つっこんでやろう。
雨祢は俺の両肩にばっと手を置いた。ビックリしてピクッとなった俺が見えて。
鏡で見える雨祢は淡々と「ほら、」と言う。
「出来たよ。多分渾身の出来」
やはり、左手に指輪がない。
鏡を覗き込む短髪で灰色スーツの男がにやっと笑う。自然な笑みは嫌味がない爽やかさ。
洗面台にストックしてあるコンビニのごみ袋へ、雨合羽みたいなやつから髪をすくってから捨ててそれは外され、漸く髪の軽さを感じた。
風呂場に置かれた雨合羽。これは風呂場で張り付いた髪の毛を洗って干して乾かせの意思ですな。
ちらっと雨祢を見れば、満面の笑みで「終わったら声掛けて」と、洗面台兼脱衣場を出て行く。楽しみで仕方のない顔。
仕方なく、俺は微妙な時間だが風呂に入ることにした。
- 2 -
*前次#
ページ: