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「百合枝」

 ふと名前を呼ばれて夫を見れば、優しい笑顔で微笑み、「終わったよ」と夫は私に告げました。

「あ、はい」
「帰りの支度をしてくる」

 そう告げれば夫は、一度奥に引っ込んで、鞄だけを持ち、再び現れました。
 ふいに目に入る左手。やはり、指輪はしていないようでした。

「さぁ行こうか」

微笑む夫の真意は。
いつだって私には遠いものだと感じました。

 二人で裏口から出て、夫は青いパッケージのタバコをポケットから取り出し、一本を振って取り、くわえる。

 懐かしいような、この前まであったような光景で。なんとなく、唇で挟むような、歯を食いしばるような見た目。

 しかしそんなときの、つまりはタバコを吸うときの夫の目は、なんだか、日常やら空気を見透かすような、冷めた目をしているのです。

 人差し指と中指の真ん中辺りで挟んでちょっと第二関節を曲げるような、そんなのすら様になる人。

「悪いね」

 悪びれもなく言われたその口から離れたタバコの紫煙が、ピンと上に伸びては飛散していく様が、酷く日常を感じました。そんな自分に驚きすら感じてしまいます。

 私はあれから日常を感じていなかったのだろうかという切迫感が胸にきます。

「構いませんよ」

 わりとその姿は、好きなのです。
 真結美はタバコを吸わないので、もしかすると元夫に会ったことがバレてしまうかもしれません。しかし、それも自然現象。

 タバコが嫌いだと真結美は言います。しかし私は、この灰臭さは、夫との色々を思い出すようで、いまは懐かしく感じています。

 吸い終わると、「おまたせ」というのもまた、どうしてか遠く感じて。

「いえ、」
「じゃぁ行こうか」

 後ろにある錆びた階段を見つめる夫は、やはり離婚する前と一切変わっていないようで。

 二人で階段を登り、夫の背中を見てふいに、寂しくなったような気がしました。

「君を友人としか見れなくなってしまった」

 あの、微睡みの中にあった、背骨の真ん中あたりにある黒子がある背中はそう語って。
 その時も貴方は煙を眺めていました。
 私はなんとなくを全て悟った気になりました。

「実は、私もなんです」

 だからそうとしか告げられなくて。なんと答えたら良かったのか。だってこれは、もう恐らく私とはそうなれないと言うことで。

 ただ背中は悲しそうな、哀愁があったので、そう、私は私の性分が悪かったのかと。人に入り込むことが出来なかった私が失ったものだと。

 私はそれから、同じ職場で、一度同姓愛者だと語った真結美と共に歩めたら、そうシフト変更をしたのです。

「今日は…」

 ふと、夫が言う。

「どうして、来たの?」

…そうでしょうね。

「お祈りの帰りです」
「あぁ、そうか…」
「貴方は何故私を、」
「うーん。
 俺には渾身の愛かなと感じたから、かな」

 なんて、

「それはどういう」
「まぁ、観てってよ」

 そう言って微笑む夫が非常に残酷に思えました。

 扉を難なく開け、促された私は先に入りました。初めて来た、廊下や、奥のスペース。そのスペースからは劇団員の姿が、扉越しに見えました。

 ドアに掛かる左手。
 違和感ない、自然な動作で扉を開けた夫の日常を観たような気が致しました。

 扉を開けると、皆一斉に「おはようございます」と夫に挨拶をしてくれました。夫はそれに笑顔で「おはよう」と答えたのです。

 誰かが言うよりも先に夫は、「妻です」と、劇団員に一言私を紹介しました。ぎこちなくも、私は頭を下げて挨拶をしました。

「百合枝ちゃん!」
「久しぶりね」

 声をかけてきたのは、大学サークル時代から一緒にやって来た、夫の旧友。

 半袖ジーパンの、スタイリッシュな短髪のトキくん。カールした緩めの長髪をアップにしたユメちゃん。

 正直、久しぶりなので本名がパッと浮かばなかったけど、

「トキくんとユメちゃん?」

 私がそう言うと「わー」と、二人が抱きついてきて、「元気だった?」だの「綺麗になったね」だの、まぁ、懐かしかったのです。

「こらトキ。お前は抱き付いちゃいかんだろ、ユメは胸がでかいんだから」
「いやそれ妻の前で言うのどうかと思うよ雨祢」
「まぁ虫けらくらいの感情表現だけどね。正直雨祢ちゃんのそれもどうかと思う」

 三人は昔と変わらず、仲良しなようです。

「はいはい。みんな待ってるから。
悪いな百合枝」
「いえ」

 劇団員は、老若男女、上は50代から下は18くらいまでの、20人ほど。劇団、というには多い方であるらしい。

 ここを立てたときに夫は私に言いました。「やりたい人がくればいい。無名でも。誰でも、何かを産み出すことは渇望だ」と。

 夫は、先に来ていた高崎さんと軽井沢さんに「ありがとうございます」と挨拶をした。二人はどうやら、40くらいの女性の団員と、衣装の話をしていたようで。

「…今回、二人に衣装やヘアスタイルの担当、お願いしたんだ」

 夫は私にそう説明してくれました。

「はい、今日は昨日言ってた13の2。やろうか」

 なるほど。だから来たのか、あの二人。

「こっちもまぁ話はわかったぞ。役者さんとなんとなく合わせた。お前の意見と役者さんの意見をちょっと聞きたいんだが」
「うん、確かにちょっと相違はあるかもよ、御波ちゃん!」
「あ、はい。
 百合枝、すまない、ちょっと話してくる。まぁ、座ってみてて」

 「百合枝ちゃんこっちおいでー」とユメちゃんに促され、私は隅の方に座る。
 トキくんは台本を持って、目の前で、20代くらいの、若い金髪のような、白いような髪の、可愛らしい顔をした、ちょっと那由多くんに似てる男の子と「んじゃぁさ、」と、話し合いながら練習をしている。

あぁ、なんだか。
懐かしいなぁ、これ。
昔の、サークルでやっていたころを思い出す。

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