3
店のオープン作業には、遅刻してしまった。どうすることもない空虚にここ3日の失態と今日の遅れに対し、心配とか、呆れとか、雪にはそれを構うほどの精神はなく。
雇い主には風邪で声が出なかったのだと伝えた。雪の状況をメールで確認していた春斗がなんとか、虚偽ではあるが開けた3日については雇い主に伝えていたし、何より少し窶《やつ》れ顔色が悪く、どこか上の空である雪への言及は少しで済んでしまった。
突発性難聴について話す余裕も理由も雪にはなかった。実際にはそれほどの支障がない、ただ右から聞こえるはずの声に鈍感になるだけだ。
「ユキ、なぁ、おい」
DJの音出しにディスコード。店でグラスの準備をしていても、潜められた空気のような春斗の声は聞き取れなかった。
雪が本日出勤しないかもしれないと仕事に投入されていた「ミサト」という、一見すれば男子のような金の短髪をした男勝りの後輩から「ユキさん、」と指を指されて漸く春斗が呼んでいたのだと気がついた。
「あっ、はぁ、すみません」
「いや、まぁいいんだけどお前大丈夫か?」
「確かにユキさん、痩せましたよね。女子力を越えてスラムレベルで」
確かに。
常日頃ですら、恐らくこの後輩に自分はなんとなく勝てない気がしている、体格と性格的に。
切れた眼をしたスーツのDJ FUMITOさんが「ウォッカ頂戴〜」と笑顔で頼んでくる。最早彼にはジョッキでウォッカリッキーを出す。バンドマン特有、「アルコールなら何でも良い」というニーズに添ったものだ。
「まぁ、大丈夫かも…」
「あそう…」
「ミサトごめん、ここ3日」
「今日は何系?」「EDMかな」と猫背のDJと話始めたミサトに謝罪をする。多分、別に怒ってはいないのだけど。
やはり、ミサトは何でもない表情だった。DJの切れ長な視線とそれがミキシングしてカウンターから雪を捉える。
「いや正直来てくれたらそれでいいというか…。バイトだしあたしは。
バイトじゃないからユキさん、バックれはないだろうけどいままでになかったからどちらかと言うと「死んでない?」みたいなんあった」
「あ、わかるわ。
3日も兄ちゃん通いつめてるし」
「ん?」
「よーいちさんだっけ?」
それは。
日常から仕事が弱くなる。
ウォッカリッキーの氷に微かなノイズが交じる。
DJ FUMITOは「あぁ、ただのお兄さんなんだね」と、またブースに戻っていった。
「え、ホントに?」
「うんなんか連絡ない?って。まぁだから「生きてるみたいですよ」って伝えてたけどさ」
「うわぁ…」
今日来るかは知らないが、多分来たとしたら気まずい。
浩のことを言えるわけでもないし…。
薬は、浩が現れた次の日、陽一が「渡しに来るから」と言ったのを思い出し、待ち合わせをして取りに行ったのだ。本当に少しだけしか返してくれなかった。
その時に具合が悪いがただの薬の飲みすぎだからと適当に見繕ったわけで。
でも、まぁ。
気まずいくらいならまだましかもしれない。
「ホントにすみません」
「いやまぁ仕方ないよ。けどさぁ…」
春斗もミサトも口ごもる。炭酸水よりも石灰がある、硬水のような苦さ。
多分言いたいことを語ることはなかったが、以前の入院と手首の傷なのだ。自分の失態に二人は何を思うか。心配も、迷惑寄りに近いだろうなと、勝手に雪は思う。自分だったら、そうだから。「仕方ないよ」を素直には受け入れられない。
「…風邪を引くと、まぁ一人なんで…なかなか外に出るのも辛くて思ったより…」
「風邪なら、まぁいいんだけど…よーいちさんに連絡、入れたらよかったのに」
踏み込まない不便さも、確かに雪には感じ取れるけれども。
「春斗さんすみません」
「いや、そうじゃなくて…」
重い空気に作業は止まってしまう。
恐らく、自分がまたバカな真似をしたと思われているだろう。確かにそれもあった。その勘違いならまだましなのに、やはり硬水。喉に引っ掛かり、自分が何を言って弁明しなければならないのか、仕事という環境ではダイレクトに脳を痺れさせる。
後腐れある、現在仕事仲間だという関係はこんな時に、心臓をそわそわさせて血液を汗に変えてしまう、凍る。
より雪の顔色が悪くなってしまったような気がした春斗は「まぁ…」と重く切り出す。
「なにか、あったら…」
言ってね。
春斗を見れば、確かに不安と温情をステアし、絶妙に混じっている表情。
震えそうな手元にまた視線を移し雪には、「はい。ありがとうございます」と無難に言い残すことしか出来ないでいる。
慣れたオープン作業に、少し重々しい空気が流れた。
これは、自分が発した空気、排気ガスのような。アイソレーターで日常をカットし仕事をしよう。しかしクロスフェイダーの調節はうまくない。やはり機材は、難しい。雪は割り切るしかやり場がなかった。
水道水で手を洗う、それだけでは傷を拭えはしない。皮膚と同じ色の傷。これは薄らと自分の、一度だけ会ったことのある父を思い出す。
- 17 -
*前次#
ページ: