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特に何も話すことはない。浩がビールの缶に灰を落とす。然り気無くその缶の場所は雪の手にも届く位置に移された。
溜め息は吐きたくなるが一つ聞いておこうと雪は先程消えた質問を思い出した。
「あのさ、浩」
「なんだよ」
浩はタバコを指で縦にちょんちょんと手わすらをして、煙を眺めている。煙は白く輪になり霧散していくようだ。
「母さんに会った?」
「は?」
浩の声は少し不穏さを孕むが、浩は至って気にしたものでもない、元来口は悪いのだ。手わすらも止めないまま「会ってねぇけど」と返答を寄越してくる。
「何?なんかあんの」
「いや、別に」
タバコは吸わないのだろうか、そのまましばらく浩は輪を作り続け沈黙が空気を汚した。だがやはりふいに、「これ、線香みてぇなのな」と雪をチラ見して言う浩を皮肉でしか捉えられない。
「あぁ、でもさ」
それからにこっと、浩は笑った。
「これ、こんな臭い。なんつーか、タバコっぽくねぇっつーかさ、フルーティー的な?甘いっつーか。
これ、お前こんな臭いするよなぁ」
そりゃ、そうだろうけど。
「これ気に入ったわ、良い臭い」
何を思って兄は言うのか。
子供のように素直に言う兄。少し困るのだけど、兄にはこういうところがある。少し土足で人に入ってくるような、そんなところが。
「…それあげるよ」
「え、あっそう」
「どうせ吸うでしょ」
「多分」
実際兄は21の頃に刑務所に入った。自分より、タバコを吸っている期間は多分短い。確か16の、高校デビュータイプだった。実際には浩は、中卒だったけれども。
「あ、あとさぁ」
「何」
「金頂戴」
「…1万でいい?」
「ケチ臭ぇな」
「何に使うの」
「パチンコ」
「…ごめん、お金ないんだよ」
「嘘吐けよ、こんなとこ住んでてよ」
答えるのも厄介だが、雪がタバコを消した瞬間「まさかよぉ、」と、台風の前のような口調で浩は迫ってくる。
硬直する。
「お前、青柳んとこいんのか」
「…いない」
目は合わせなかったが浩はまだ長いタバコを揉み消し「嘘吐いてんじゃねぇよ」と、雪を睨んでは急に押し入るように雪の腕を掴みそのまま押し倒して怒鳴り付けた。
「てめぇがあの野郎と繋がりがないわけねぇんだよ、なぁ!」
抵抗が出来ない、がんがんと前髪を掴み揺さぶられ床に打ち付けられる後頭部も痛い。
「あんとか言えよてめぇっ!」
喉が詰まるように呼吸が荒くなる、痛い痛い痛い、苦しい怖い苦しい。
だが抵抗しない弟に「はっ、」と嘲笑い手を離しては「どーしょもねぇ、」と吐き捨てた。
「ヤクザの倅だなんてなぁ、あ?」
呼吸がままならない、これはトラウマだ、感情が濁流となる、本気で怖い、生理的な涙に体が熱くなる、けれど冷や汗ばかり出ていく。恐怖だ、何も、
思考遮断のように激しい耳鳴りが右耳を襲い、途端にそれから半分、兄の怒号が水中へ浸水してしまい現実の痛さに意識が強調され戻ってしまった。
咄嗟に兄を払い除ける。
兄は怒りに雪を殴ろうと拳を作るが、弟のあまりに驚いた表情と喘息のような息遣いに、咄嗟にあの時のキャバクラ女を思い出す、走馬灯のように。
一瞬でその快楽に似た暴力の衝動が恐怖へ変わり萎えてしまった。
「ったく、」
それを言い捨て、浩はダルそうに自分から剥がれ、軽くなる。
それからドアの音が響き、漸く吐き出すように喘ぐ苦しさに感情が氾濫した。悔しさか虚しさか焦りか絶望か、わからないが泣くしか出来ない。これは間違いなく、恐怖。
兄は台風のような男だ。
慢性的に呼吸を無理に戻そうとすれば声は出る。だが右耳が痛かった。そして音が、半減してしまっていた。
低気圧のような、この世界は。
やり場が、なかった。
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