8


 ぽつり、ぽつりと。

「…多分、田野倉だよ」

 青柳はそう言った。

「森山浩の身元を引き受けたの」

 陽一の身体の中に、ソーダ水のような、温い炭酸が流れたような気がした。

「っは、」
「なんだ、起きてやがったか。まぁ、喋れねぇか。お前らあとで病院にでもそいつ、ぶち込んで来いよ」

 確かに、
 気泡で膨れるように息が出る。胃液の臭いしかしない。

 はぁはぁと陽一が息をすれば「大丈夫か?」と心配も無さそうな冷淡な青柳の物言い。
 舎弟が一人陽一の半身を起こせば青柳はやはり、嫌いな割れた笑みを浮かべていた。

「俺が無駄なことをするわけないだろ川上くん。
 だが、名前だけだろう。そこにいなかったならな。
 …今朝方雪の家付近を森山浩らしき男が彷徨いてたそうだが川上くん、お前も雪の家に行ったよな。何か知らないか?
 ついでに、田野倉はあれからどうも、雪の店付近を彷徨いてたらしいけど」

 …なんだって?

 少し俯いて考えているような陽一に青柳は確信を得る。

「…抜けるか川上」

 訪ねるように青柳は陽一に言う。

「…まぁ、森山浩を捕まえてきたら考えようか?」
「…森山…浩、は、」

 陽一は漸く喋ることが出来たが、口が切れていまいち言葉を発せなかった。

「あ?」
「俺、が」
「お前が?」
「…今朝、取り逃がしました……」

 弱々しい声で陽一が言うと青柳は笑い「やっぱりな」と言った。
 青柳が顎で指示すれば舎弟は陽一の半身を下ろす。

「お前ヤクザ向いてねぇよ。
 まぁそのうち出てくんだろ。川上、森山浩の件にお前は一切関わるな。勿論お前にどうなったかなんて知らせる義理もねぇよな」

 あぁ。
 やっぱりそうか。

「なんで助けたんだよ」

 本当にその通りだ。風呂場で、シャワーの水を被りぐったりと青ざめた雪の顔を思い出した。
 溢れる風呂の水は真っ赤で、たらたらたらたら排水溝に流れていって。
 湯気は立っていたな。お湯かもしれないなとぼんやりと陽一は思い出す。酩酊し眠くなるように目蓋を閉じて。

 だが雪はぼんやりとした視界の中にはっきり俺を見つけたようだった。
 弱々しくも強く睨むその澄んだ目は、俺をどんな風に映しただろうか。

 いまでもそれを思い出す度に少し、怖くなる。雪の意識にそのとき陽一がいたかなんて、湯気のように行き場はない。

 目が覚めたときの疲労と、生気のない様、破棄なく俯いた雪は陽一に「ははっ」と、まるで笑っていなかった。

「…母さんが呼んだんだって?」

 漸く雪が話した言葉がそれだった。

「…そうだよ」
「半年…会ってたんだってね」
「……そう、」
「どんな気持ちで会ってたの?」

 投げ捨てられた言葉と、「ねぇ、」嘲笑うかのような微かに涙で湿る熱い声。

「こんなに無様で、どーしょうもなくて、何ぃ?バカにしてんのか、おい、」

 言いながら点滴を毟り取って投げる雪に言いたかった。
 
 違う。

「俺の兄貴はお前の姉ちゃんを殺しちまったよ、罵れよ、それで勘弁してくれよっ、」

 ベットから這い出て陽一に掴み掛かる雪の腕からは、血が流れていた。
 陽一はナースコールに手を伸ばそうとしたが、椅子ごと床に倒れてしまった。
 その指先には透明な、飲み物ではない薬品がぽつり、ぽつりと降っていて。

「なんで俺を助けたんだよ、お前が、」

 何て答えただろうか。
 確か…

「わかんねぇよ、」

 急にすっと、
 雪は驚いたような、魂が抜けたような、どことなく空虚な表情に様変わりして。

「な…に、そ」
「だって、」

 霊安室でお前が言った「ねぇ母さん。どうして俺を産んだの」だなんて。

 急に足元から漣が去っていくような、だけどそれは綺麗な海に写る、月のように、どこかやりきれない気持ちになるような傷を残したんじゃないか。

 はっきり思い出した。

 雪の漣も引いたようだった。
 だけど堪えていた涙は歯止めが利かなかったらしい。溢れて、拭って、それが痛々しくて、抱き締めようにも看護婦が騒ぎに駆けつけ、結局引き剥がされてしまった。

 憎めたら多分、少し楽だったんだと今なら陽一は思う。
 どうしたってそれは叶わなかった。


 室内に響いた電子音で陽一は目を覚ました。

「はい」

 青柳の無機質な声がする。
 場所も何も変わっていない。

 どうやら少しの間、寝ていたようだった。

 重くのし掛かるような節々の痛みと沈黙の間に「わかりました」と電話が切れたのがわかった。

「川上くん、起きてるか?起きれるか?」

 無機質ながら、青柳が早口なのがわかる。
 何か、あったのだろうか。

「…はいっ、」

 潰れるような返事をする。

「…病院に行ってこい」
「…は」
「雪と一緒に。
 知子が死んだ」

 予想外は一気に濁流のように過ぎ去り、漣のように引き返しては「は、」と起き上がった。
 身体の節々が悲鳴をあげている。

 青柳は歯を食い縛り睨むように陽一を見て「早く…っ」と、腹に残す声が耳に届く。
 言葉は痞《つかえ》て、出ていかなかった。

- 37 -

*前次#


ページ: