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無色透明の水は上から眺めると、何に見えるのだろうか。
病院から店へ入った訃報に、雪は一瞬出来事を呑み込めず、それからすぐに「いや、でも」と作業を続けながら言った。
『そんなものはいいから早く行きなさい』
この雰囲気に呑まれるしかなく、同情的な目を後にし、タクシーで一人病院に向かいながら「違う」と思った。
訃報を受け取った青柳の「早く行け」という命令は、怒りのような、やるせなさのような、熱が籠ったものだった。
そんな目をするくらいなら。陽一はそう思って「一緒にいきましょうよ」と言おうとした。「違う、」と彼は俯いて吐き捨てた。
底に砂利が溜まっている。土とも、水とも混ざらない、そして海へはけして流れ着かないこのはっきりとした個体は酷く重い。
父さんは果たして、訪れるのだろうかとぼんやり、13年前を思い出した。
夜の六本木から御茶ノ水への回路はとても静かに感じた。川や橋や公園やビル街、けれどどこも街灯はオレンジ色。夜はこんなに黒いというのに。
新宿からの高架下はごちゃごちゃタクシーばかりが走り、交差点もいくつもある。変わらない景色は内心をイラつかせていく。
雪はどうやら店を出たらしいとわかり、店よりは御茶ノ水へ向かおうと走る。
13年前のあの日、自分の握られた拳は震えていた。
ガラス越しの光は何故だかぼやけて見える。乱反射かもしれない。
後部座席の窓を静かに開けたが、空気が酷く濁っていると感じた。この街灯のじんわりと滲むような景色は、乱視なのか、目を細めてみる。
危ないですよと身体を引き止めるようなシートベルトに、一息吐いてまた身を預ける。
「熱いですか?」と訪ねてこられるそれに、「いえ、」「いや」。
景色に大きな川、何十メートル下にあるのだろうか、キラキラと光る駅と電車。この駅の改修工事は、いつ終わるのだろうか。
そういえば、終わったのだろうか。
ビジネスビル、いや、一流ホテルのような見映えの、病院。
緊急外来口の向かい側には斎場があった。
雪はその緊急外来口でタクシーの支払いを済ませる。
タクシーを降りてすぐ、そういえば喫煙所があったなと、ふらっと向かいの通路に立ち寄った。
背中には木が生い茂るが、確実に向こう側には大きな川がある。ぼんやりとその向こうを眺めるように喫煙所の壁に凭れていれば、どこからか、電車のアナウンスが聞こえてくるような気がした。
オレンジのライトに白く、いや、青くも見えるような真っ直ぐと伸びる線香のような煙は、霧散することなく空へ向かう。
どうも夜空はいつでも、ライトのせいか乱視のせいか、薄汚れて見えるものだなぁ。
今更ながら開店のときに飲んだテキーラが、重く鳩尾あたりに残っているような気がした。茶色く泥のように後残りする酒。胃痛に近い。
ハイライトを吸い終わり、なんとなく少し呆けたが、大学生だかなんだか、我に返るような話し声が耳に響いてきて、雪はやっと病院の通用口に向かう気になった。
ケータイを肩掛けバックから取り出して連絡をしようとすると、着信が何件かあったことに気付く。
そのまま電話帳から病院へ電話を掛けると、すぐに緊急外来へ繋がった。
「もしもし、連絡を頂いた森山と申します。
母の森山知子が亡くなったと。息子の雪と申しますが、いま、病院の緊急外来口に着くのですが」
病院側は旨をすぐに承ったようで、特に込み入った話もなく、そのまま緊急外来口へ来てくれと言われた。
一年ぶりに訪れたのが、まさかこんな風になるなんて思わなかった。
あれからのことを考えたり親に会うことだったり、気まずいような、その感情はこうなる前にあったのだろうけれども。だから、大して変わらない気がしてしまっている。
彼女に会うことはいつしか怖かったのかもしれない。会う度に痩せていくような気がするのに、それでも笑っていようとしてくれる母親だった。
緊急外来口では、深刻そうな表情の看護師が立っていて、深く頭を下げお悔やみを述べられた。
入ってすぐの階段を降りながら
「すぐにご家族の…お兄様がいらっしゃるそうで」
と言われた。
それは浩、だろうかと雪が考えた先に「川上様とおっしゃる方が」と看護師は続けた。
そうか、と、ただそれだけを雪は思った。
「お先にご遺族控え室へ」
「いえ、結構です」
あまりにも冷静に雪が言うので、看護師が階段を降りながら、少し振り向くように「はぁ…えっと…」と困っていた。
「家族、僕だけなので」
階段はひんやりしていた。
声は呑まれるようなディレイ。どこか、遠くに行きそうな自分のその声は、心もとなく冷淡だった。
さっきよりも深く振り返りこちらを見る、前を行く看護師に、自分は多分体裁で微笑んだが、寒さに歯がカチカチと浮きそうだった。きっと、この看護師に自分は痛ましく見えるだろう。
光りも音もない地下一階を前に「母は、どうして」とだけ訪ねてみた。
「…お医者様が、説明してくれると思います」
そうなのか。ということは、霊安室で医者は待っているのだろうか。
陽一の姉の時はきっと、そうではなかった気がするが、正直あの真っ白さに、13年前を思い出すことが出来なかった。
いや、こちらは加害者だ。勝手が違かったのかもしれない。
開けられた霊安室の前に、白衣を来た医者が立っているのが見えた。看護師は、それで案内を終え、また上に向かったようだった。
目が合った医者は頭を深々と下げている。
その霊安室の光が片目の乱視で、少し歪むような、滲むような、ハッキリと合わない感覚がした。
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