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「いや……。
 言ってくれてありがとう。少し気が楽になった」
「…そう」

 そうなったとき、雪はどうするのだろうか。
 いや、陽一は自身が辞められる気がしていない。だが、青柳は考え直すのかも、しれないな。

 そこで話題は、尽きてしまった。
 いや、本当は結構あるのかもしれないが、どうにも考えては打ち消されるものばかりだった。
 二人分の曖昧な呼吸は長く重く流れていくばかりで。

 父を知らない自分は思い出す。
「お父さんはどんな人なの」
とある幼い日に母に聞いたあの時のことを。

 母は少しの重い余韻を残すくせに、スッキリと笑って言ったのだ。

「ろくでもない人よ」
と。

「お母さん、ちょっと疲れちゃったみたい」

 と笑いかけてくれた姉を思い出す。
 しばらくたってそれを受け入れられなかった自分は一度母に言ったことがある、「母さん、いつまで疲れてるの」と。

 どうしてそれから言葉は出ていかなかったのだろうか。だけどどうして、過去が曖昧に遠くなるような感覚を今、覚えているのだろうかと部屋を眺める。

 いつまで続いたか、多分それほど長くはないのだろう。漂着は見えないままだが「お姉さんはさ、」と言う雪の表情すら、見えず曖昧なままだった。

「…どんな、人だったの」
「…姉ちゃん?
 …いつでも笑顔だったような記憶しかない」
 
 きっと、それも疲れていたと思うけど。

「…不思議とさ。案外、もうあんまり覚えていないような…でも、思い出すことは出来るんだけどさ。いなくなった母親も、死んだ父も、ちょっと、実感ないくらいには遠くなった、気がする」

 それほどに、染まったのかもしれない。何色かといえば、わからないけど。

「…そっか、」

 タバコが吸いたいな。
 こんなときに、ふわっとタバコが吸いたくなる。だけど、それほど好きなものでもないはずなんだ。

 中毒はじわりとこうして、何事もないように体を蝕むものだと雪は思った。
 ふわっと陽一も、「タバコ吸いてぇな」と言ったことに、少し、驚いた。

「…タバコ、吸うんだっけ」
「たまにな。お前が吸っててちょっと、いいなぁって思ってさ」
「なにそれ」
「わかんないけどさ。わりとここ最近かな」
「…変なの」
「お前の方がなんか、最初ビックリしたもんだよ。まぁ、考えたら高校生から会ってなかったもんな」

 そろそろ、来る頃じゃないかな、車。片隅でそう思って然り気無く陽一は腕時計を見た。
 22時47分24秒。デジタル時計のライトに浮かぶ。これも、職業病かもしれない。

 ふらっと陽一は扉の方を見に行くが「まだだなぁ」とのんびり言った。
 「まぁ混んでたからなぁ」と続ける陽一の呟きに、こちらは大して混んでなかったのになと、雪はぼんやりと思った。もしかすると、秋葉原方面の大通りを使ったのかもしれないなと考えが行き着いた。

 またふらっと隣に座る陽一は、やっぱり話題を考えているようで。じゃぁどうしようかと「じゃぁタバコでも吸いに行く?」と聞いてみた。

「ここ出た目の前にあるよ」
「んー…」
「というか陽一、車で来たんだよね、電車?」
「車だけど」
「その車は帰っちゃったの?」
「というか次に行ったな。まぁ、葬儀って手続き結構あるらしいから」
「あぁ…そっか」
「…あ、そうだ。
 来年と…6年後、三回忌と七回忌、やるらしいよ」

 やるらしいよ。
 えらく、曖昧だがそれはどういう趣旨だろうか。

「ん?」
「いや、俺今年知ったんだけど、法要。今年13年目と思って今日、墓寄ったんだけど、まぁ、一年遅かったみたいだ」
「…そうなの?」
「うん。死んだ年を一年と数えるんだってさ。だから…満12年の去年にやるべきだったらしい。ただそれを言ったら、俺は今年母の七回忌をやるべきらしいんだわ」
「…知らなかった」
「だよな。俺も」

 そうだったのか。
 タイミングとはこうも、重なるものなんだな。

「…陽一、」
「ん?何?」
「…じゃぁ、金貸してよ。いくらするか知らないけど」

 嘲笑のような、
 哀愁のような口調で取り繕う雪に、一瞬言葉が詰まってしまった。
 だが、それを感じる雪はそれでも、微笑むように託そうか、そう思った。

「…借りなくても、青柳さんがやってくれるよ。葬儀もさ」
「…そっか。じゃぁ、いいか」

 どうしてだろうか。
 この体裁の端がどうにも、不透明で掴めない霧のように、感じる。

 雪は一体何を考えただろうか。
 陽一は一体、何を感じただろうか。
 それが汲み取れるほど親密ではないが、それを読もうとするくらいには遠すぎる存在ではなかった。

 友人でも家族でもない妙な後腐れは、こんな時に確かに、少々障害になるものだと思った。

 間もなくして隣の霊安室で物音がした。
 遺族控え室に看護師が覗きに来て、「お車がいらっしゃいましたよ」と声が掛かる。

 二人で立ち上がり、雪は死亡診断書を手に、陽一は少しだけネクタイをきつく閉めるように正した。

 霊安室の壁だったそれは解放され、箱のようなものに入れられた知子は黒いベンツのトランクに入れられる。
 
 その出口から雪は5年ぶり、24歳の頃以来に父の姿を見た。会うのは四度目だが、死亡届けを持つ雪を見て「久しぶりだな」と感情もなく青柳はそう言った。

 出棺の霊柩車のような光景だが、どうにも死体遺棄のようにも思える温度差がある。

 陽一は青柳に頭を下げる、雪は特に何も声を掛けない。
 そんな二人に「乗れよ」と言う青柳はどこまでいっても冷淡なものだった。

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