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重々しい空気のまま、陽一は息を吸うように言う、「浩《こう》が出所したらしい」と。
まさかの話題に雪は一瞬、呼吸が止まってしまう思いだった。
「…この前」
「…えっ、」
組んだ両手に頭を乗せるように俯いた陽一に嘘はないのだろう。
浩は、雪の実の、半分だけ血が通る兄だ。
「…その様子だと、お前のとこには来てないようだな」
「え、は?」
「出所してから探してるんだが、どうにも見つからないらしくてな」
「それって、」
消されたわけではない、そう言うことなのか。
だとしたら自分の母親は。
「…全く掴めてないの?」
「あぁ。どうにも…わからない」
聞ける義理でもなかった。
陽一からすればいま、複雑だろう。これは組からの命令なのか、憎しみなのか…心配なのか、その切れ長の目が見る自分への感情が読み取れなかった。
自分の兄、森山浩は13年前。
目の前にいる義理の兄、川上陽一の姉、|遥《はるか》を殺した張本人だからだ。
「…あの、」
「雪」
だが陽一の雪を呼ぶ声はずっしり、透水した泥のような重さを持っている。
「…なにかあったら。お前の母親にも…。必ず言って欲しい」
強いこの意思だけははっきりと読み取ることが出来る。陽一は、雪の兄を憎んでいる。
「…わかったけど、」
それは本当にそうなってしまったとき。
この兄に伝えていいのか、雪にはこの吸収スペクトクルが見えなくなっている。
これは本当に陽一の為なのか、解らないだろうと頭が、寒くなっていく気がする。何もなければ幸いかもしれないが、現にもう、過去にことは起こってしまっている。
伝えるべきではなかったのかもしれないと雪のレイリー散乱のように霧散した意識の回折を読み解けない。水は何故青いのか。そんなことを本当に根拠を持って言えた学者など、存在しない。
だがこの錯乱は結局水を青くしている。空中で彷徨いチルアウトしようと無意識に震えた右手で鞄を漁り始めた雪へ「雪、」と、今度はコヒーレンスを表そうと陽一はしっかりと呼び掛けた。
「何も怖くないから」
…回折格子では、届かない。だが、細部の隠れた所は、互いに見れない方が、もしかしたら幸いなのかもしれないと、身勝手に感じながら雪は思い出す。
13年前のあの日も自分は正しいことなんて出来ていない。
1年前に再会したときもまたそれは胸に、ナイフを刺されたようであり、その血液の赤さと痙攣に息が止まってしまったというのに。
陽一は出会ったときからどこか、雪にはない強さを持っていた。
雪は出会ったときからどこか、陽一にはない優しさを持っていた。
互いにただ、勇気だけを持てていない。
それは水の青のような非科学的な物だが、説明するまでの単語や理論は沢山あるのだけど。
互いに黙ることしか出来なかった。
一歩間違えれば手首を切って浴槽に沈めるだろう。一歩間違えれば日の当たらない存在に成り下がるだろう。だが、互いにそれで命を取り止めている。この距離感は、空と、水の青に近い物かも、知れない。
この陶酔しきった執着は、屈折に歪んで見えるのだと、またひとつ酸素を吸ってしまったのだと知った、9月の湿った夜だった。
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