木枯らしの向こう
「あんはぁ、石橋。俺、思ぅんだけどはぁ」
朝、ホタル族ベランダの向こう。
まるで台風が過ぎ去ったように壮大な寝癖をつけた男、五十嵐はタバコを咥えたまま2階の景色に遠い目でそう言った。
「なんだよおはよう」
「おう、おはおー」
「で?彼女と喧嘩した?」
昨日の壁越しのヒステリックな物音を思い出す。
どうやら昨日は相当な喧嘩をしたらしい。薄壁の1kにすべて筒抜けだった。
多分こいつのワンナイトうつつぬかしが引き金だったと見える。
「あー、やっぱ聞こえた?」
「バッチリ。ついに彼女にバレたんだろ。まぁ、俺に二日にいっぺん「昨日はお楽しみなようで」と言われるくらいだもんな」
「お前は一体いつ寝てるわけ」
「日によるな」
「いいなぁ在宅」
「調子こくなよ」
大体うるさいんだっちゅーの。
「でさぁ」
「なに」
「あのさぁ、コーヒーってあるじゃん」
「あるけどなんだよ」
「まぁ、別れちゃったんだけどさあ」
ベランダ越しで灰皿にタバコを捨てている。俺もそろそろ次のタバコに行こうと一本火をつけた。
「あ、聞いてくれんの?」
「本題聞いてねぇからね」
「あそうね。コーヒーってあるじゃん?」
「うん、で?」
主題がコーヒーとは、また遠回しなやつだな。
とは思っても、こいつが何者かよくわからないけど。
「あれ、俺フィルターがまだあるなら豆足して」
五十嵐はまたタバコを咥えて火をつける。
そもそも別れたならもう、タバコを嫌う彼女のためにホタル族になったそれ、やめてもいいだろうに。
「コーヒーいれちゃぁだけほは」
一口目が白く、風に拐われる。灰がこっちに飛びそうだ。
「一口目くらい喋らず吸えよ」
「ん?」
「あぁまぁいいわ。で?」
「うん。
あんでがぁし、きらいらひふ」
「ごめんなに言ってっか全然わかんねぇわ」
「ん、」
口からタバコを離して「コーヒーってあるじゃん?」に戻ってしまった。不毛だ。もう付き合わなくてもいい気がするけど。
軽い口調で五十嵐は続けた。
「フィルターが使えそうなら俺豆を上から足してまた入れちゃう派なんだけどさ。どうにも彼女はあの出涸らし、嫌いらしいんだわ」
それは。
「…何かの隠喩?」
「いんゆ?」
「うーん、例え話?」
「おぉ、流石ライターは違うね。そうそう、例え話。まぁ隣人にはこんくらいがいいっしょ」
「全部聞こえてたけどね」
「まぁね。
味があっていいじゃんな。出涸らしもさ」
「…あんたタバコもフィルターぎりだもんね」
それ多分。
雑味って言うんだぜ。お前、案外一途なのな。
「…意外な一面だね」
まぁ、隣人にはこんくらいがいいんだろうけど。
「あ、ほう?」
「うん。いれたてしか飲まないもんだと思ってたね」
「隠喩?」
「揶揄だね。つか、寒いからもう戻るわ」
「寒いよなぁ最近。秋風が俺の心のようだよ」
「おぉ比喩。じゃ、」
「俺引っ越すわぁ、石橋」
ほ?
五十嵐は2階の景色に遠い目をしてそう言った。
「ん?」
「家賃更新だし。板橋あたりになんとなく。ホタル族も卒業。彼女はいないし一旦リセットかな」
「あっそう」
ほおそうかい。
少しまぁ、寂しくはなるなぁ。
「…冷たくない?」
「新天地でも頑張れ喫煙者。壁も綺麗だろうから引っ越しも安いだろ」
「ああそうだね。え?それだけ?」
「うんそれだけ」
「…なんだよぉ、2年間ホタル族同士で話した仲じゃん」
「それだけだね」
「つかさ、彼女いないの?」
「紹介しねぇよ?」
「あ、残念。まぁ、頑張って作れよ」
「その嵐のような寝癖に言われたくないな。まぁありがと」
「じゃ、」
「じゃ」
そう言って互いにタバコを消して部屋に戻る。
そういやぁ、俺、彼女と別れて嫌になって一人ここに来たんだよな。タバコの煙が嫌いな女だったな。傷心して、初めて話した唯一の、身近で遠い、気軽に話せるやつが五十嵐だったなと、2年前の秋を、ふと思い出した。
ただただ男二人が話しているだけになったお話でした。
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