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「瑠璃ぃ、……っ、ダメっ、」

 あぁ、お母さん。だってそう、あの時苦しそうにあの男に貪られていた。
 「バカかお前は」と裸のお母さんの後頭部を鷲掴みにしたあいつを「さくっと捕まったわ」と、笑いながら言ったお兄ちゃんに、漸く…。

「な?お兄ちゃんは瑠璃を守っただろ?」

 ……やっぱりおかしい。
 好きだよ、好きだけど違くて、それすら一瞬にして崩れた、結局お兄ちゃんだって私じゃないし、そもそも。

 …女には穴が開いている。
 そう、それは厄介なことに、痛くなるところ。

 …本はないかな。ケータイはある。谷崎さん、青空にないのかな。
 けれど「谷崎」のみで白痴的に手が震えて止まった、ぼんやりする。最早ブルーライト、視界がダメなら、音楽を聴こう。

 寝間着のポケットから昨日外したイヤホンを取りだし、ケータイにつける。

 特に選ばなくて良い。布団の中で再生を押し目を閉じれば、教会音楽のようなメロディが左右対称に聴こえてきた。

 音楽の良し悪しはわからないけど、これは由香ちゃんが入れてくれた曲だ。

 歌がそれほど上手くはないけど、それは音の一部で「裸足のまま逃げ出そう」、だからそうやって当たり前に頭へ言葉、意味、感情が流れ込むことがある。うまく刺さらなくてただ叫んだ、そう、趣味や気持ちが私にはいまいちわからないのかも知れないけれど。

 うぅ、うぅ、と唸ったお母さん。お母さん私ね、知ってるんだ。お母さんは多分今、山のなかで眠っている。どこかで私を見ていると思う。永遠に迷子ねって、お母さんが笑って言うような姿が浮かんでケータイに1曲リピートを掛ける。

 あぁ微妙にLの方が…ほわんほわんしているような気がする。酔いそう。エコーと言ったかディレイと言ったか。けど異空間で忘れられる、ような。わかるようでわからない。


──途端自分は足を滑らした。
自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一生懸命やっているように見えるにちがいなかった。──誰も見ていなかった。変な気持であった。


 イヤホンの音を小さくした。
 自分の呼吸がいつの間にか整っていると気付く。私の呼吸はこんなに小さかったのか。世界に、たったこれっぽっちしか存在していない。

 イヤホンを外したら異空間だった。ほわんほわんほわん。凄く大きな音で聞いたんだっけ。射精、夢、アパシーズ。純文学的?いや、違う。


──考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸もしたくない。畳から根の生えた植物の様にじっとして二週間ばかり暮して見たい。──


 目を閉じた上の方で見ている誰かは誰なのだろう。
 薬はなくても「自分だ」と落ち着くことは出来る。ただ眠くならないだけなんだと全てがどうでもよくて、いまだけはと崩れていきそうに、なって…。

「え?うん…好きだけど…」

 痛かったその隙間を思い出して、私はもしかすると兄に微妙な表情をしたのかもしれない。確実にあったのは「あんなこと、あんな男、」というドス黒いもの、先にお母さんが泣いた顔があって。

「あんなクソジジイ、最低じゃないか」

 お兄ちゃんがとても嬉しそうに言う、その表情は見たことのない色をしていた。

 私を覗き込むように見たお兄ちゃんはまるで自然と流れるように私にキスをしてきて、それに驚いた私はお兄ちゃんを一度突き飛ばしてしまった筈なのに。

 手を取ったお兄ちゃんは酷く優しく「でも、気持ちは良かっただろ?」と私を混乱させた。

「わからなかったかも知れないけど」

 その瞬間に鮮やかに、確かに抵抗はやめた自分が見える。

 …これは夢だと気付いた。やめろ、やめろ。斜陽が走る。──それは|所謂《いわゆる》正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可愛かわいらしく、それこそほんものみたいに見える。──あの時頭に浮かんでいたのは空虚と、太宰治。

 お母さんが昔、どうして父が私にした…「ほら」と見せびらかしていたことを「瑠璃にはやめてください、まだ子供じゃないですか」と私の手を引いて制した理由が漸くわかった瞬間で。

「……お兄ちゃん?」

 私はむずむずする胸のざわめきに天井と対峙しお兄ちゃんの髪を撫でた、そんな夕方が目に入る。
 私を見上げる中三の私はまるで薄笑いで、私を嘲笑っているようだ。やめろ、身を捩り素直に準じて「遥かに好きだ」と感じる醜態が恐ろしくて堪らない。

 今なら言える、騙されている。なのにハッキリわかっていない子供の自分は確かに見てはいけないしやってはいけなかったんだ。

「あははっ…、くすぐっ…たいよ?」

 いや違う。違う。
 若干気が触れていたのかもしれない。あんな…後だったから。

「かぁわいいなぁ、瑠璃は」

 そのねっとりとした声をどうして「粘って不衛生だ」とあの瞬間に思ったのだろうか。なのに離れられない、離れられなかったけど。

 ふと、身体が浮き沈み、ベッドがバウンドした瞬間に目覚めた。
 千秋さんがまるで私の顔に耳を傾けていて、起きた私に気付き「あ、生きてんね」と離れて行く。

 ……薬などなくても悪夢は見るらしい。

 身体が急速に冷え、汗をかいた。

「あっ、」

 まるで今の方が。

「すみません…、おはようございます……?」
「ただいま」

 夢のようだと感じているが、醒めた、のに魔が差して彼に抱きつき「うぉっ、」と体勢を崩させる。
 彼はふと申し訳程度に私の肩をポンポンと叩き「ギブギブそれぎっくりやる」とやる気無さそうに言った。

 先を見れば確かに無理な体勢で、力を弱めてしまったら、逃げるように彼はまた起き上がった。

 彼は私を見下ろしている。

「…熱烈な歓迎でどーも。手癖が悪ぃな全く」
「いや、あっ、」

 非常に喉がカラカラで喋りにくいことに気が付いた。

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