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「…かっ、おぇっ、げほっ、」
嘔吐いてしまって、千秋さんの顔に咳を掛ける勢いだった。
「あーね、あれからずっと寝てたんか?」
千秋さんは水か何かを持ってこようとするのか、去ろうとする。だけど私は手をしつこく掴み「待゛っで、」と、恐らく色気もなにもなかった。
日差しはどうやら、夕方。
見下ろしたままの千秋さんは特に表情も変えずに「はいはいはいはい」と、お腹をぽんぽんしてくれた。
「なんか飲むだろ。コーヒーなら淹れられるけどまずお前なんか食ったか」
「……ない、です」
「だよな、だと思った。取り敢えず良い報告だ、肉食いに行くぞ」
……ん?
「にくくいに?」
「そう、肉」と言いながら千秋さんはベッドから離れ、キッチンで何かをがさごそとやり始めた。
起き上がって覗くと、本当にコーヒーを用意してくれている。
そしてソファーに戻り、一人勝手に流れ作業のように一息を吐いてタバコに火を点ける。
「あっ、」と気付いたらしく、気まずそうに私を見た。
「…タバコ」
「…いいですよ」
「…だよなぁ」
タバコを吸いながら千秋さんは「山崎さん家の話」と言った。
「奥さん。旦那をこってり絞ったら満足したってよ」
「…あ、そうなんですか」
「お前にも宜しくと言われたよ。そんなわけで、金曜日だから早く行かないと肉食えない、俺は店で肉の臭いを嗅ぎながら今か今かとは待ちたくないあとハッピーアワー」
まるで業務連絡のようにそう言った千秋さんに少しだけ気後れしてしまうが、なんだかなと思い「ははは、」と笑えてきてしまった。
「瑠璃です」
「あぁ、はいそうだった瑠璃ちゃん」
「はい。お肉は焼き肉ですか?」
「…そうだなぁ、真っ先にハッピーアワーと肉しか思い浮かばなかったが…明日休みだし…いやでも意外と最近、そろそろ胃にキツいよな…しゃぶしゃぶか…」
「そんな歳です?ハッピーアワーとは?」
「あぁビールが安くなるやつ。
あんま食わない系の油だからかなぁ?コンビニ弁当のあの添加物感は耐えられるんだけど…」
「なるほど…」
「おま…瑠璃はどの肉食いたい?」
「え、決めて良いんですか?
んーじゃぁ…しゃぶしゃぶの方が食べること、ないのでしゃぶしゃぶで」
「はいよ」
ケトルがこぽこぽと音を立てる。
タバコを揉み消してちらっと私を見た千秋さんは「いや、」と首をかしげた。
「着ていく服がないなおま、瑠璃」
「…あぁなんかそういうパターンは名詞だと変ですね。うーん、確かに…。いやまだこれは私服でも行けるのではない」
「ジーパンくらいはあったかもな…」
話を終える前に動こうとした千秋さんはしかし、「いや、まぁまずコーヒーを飲もう」と落ち着かない様子だった。
「はい」
私がベッドから出ると私の分を置いてくれた。
千秋さんは眺め、「うーん思ったより寝間着だな」と、どこかから持ってきたのであろうかというコンディメントも用意してくれた。
「…でも棚には如何にもな他所行きばかりがあったんだよな」
「奥さんですか?」
「うん。当たり前だけどパッと見多分、俺と出掛けた時のやつばかり残ってたな。
自分が買ってくる変なTシャツばかりはなくなっていた」
…これは喧嘩別れなんだろうか。
「そうなんですね」
「…取り敢えずはそれでっていうのも、まぁ今更…昨日からの違和感だったんだが」
「千秋さんからしたら複雑なんでしょうけど…多分私の方がぶっちゃけ嫌だと思っていないかも…」
「…あそう?」
「若干はありますけど…なんか、まぁ…制服よりはという状況だし」
「それを言っちゃぁ、そうなんだけども」
やはりぼんやりとどこかを眺めながら「特に意味なんてなかったんだけどな」と呟くように千秋さんは言う。
「情だって多分あったんだけど手付かずにするくらいには、俺は薄情だったようだ」
「うーん」
「まぁ、」
切り替えたのか、漸く私を見たタイミングで「そうですよ、なら気にしないで」と告げる。
「特に意味なんてないんですよ」
「…そうだな。肉行こ肉」
コーヒーを飲む私に千秋さんは言った。
…蓋をすることが良いことなのかはわからなくて複雑だ、と言うのを隠したい気持ちになった。
きっとうまく予防線を張られた、これに本人は気付かないほどに自然と。それに気が付けば次の瞬間にはまるで体温が下がり心臓が白くなったような苦い気分で。
わかってはいる、厄介者だ、私は。
上手く何とも関われないから空気で良かったのに。
やっぱりこうなるとましてや厄介者だったかという事実の蓋を開ければ、歯痒くなるような気がした。こんなことも初めてだった。
千秋さんはそれから、寝室の洋服棚を開けて何事もなくジーパンとカジュアルな長いシャツを出してくれた。
これが特別に他所行きな格好だとは思えなかった。
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