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「あ?なんだよ話し掛けんなよ」
「親父んとこへ妹さん連れて行くんですか?一度帰宅しましょうか?時間はありませんけど」
「何言ってんだてめぇ、」
「このまま置いて行くのはあかんでしょ。まさか親父の前に出席させるわけでもないでしょうに」

 …この人やけにはっきり話すなと、ぼんやりしそうな頭で違和感を拾った。

「はは、大丈夫だよここに寝かしとけば。動けなくしてやる」
「親父も…こう言っちゃなんですが今日は なんで呼ばれるんですか?」
「…なんだてめぇ」

 ピタッと兄の動きが止まる。
 血生臭く殺伐とした空気。

「確か、翼さんの父上の奥さんの子供で義理の妹さんすよね」
「ああそうだ、どうしてお前が口出して知る必要がある」
「俺は別に口出しませんが親父はどうなんです?
 今日のは歳も歳ですし、縁談なんではないかと思って」
「だからなんだよ。
 あ?それともお前、これが欲しいんか?」

 違和感。
 まるで状況をはっきりさせようとでもいうような。

 兄はまるでこれ見よがしに動きを再開し、それどころか激しさが増した。
 いつも以上に暴力的で、「おらヤバイんじゃねぇの?声出せよ」と親指を口に突っ込んでくる。

 薄い酸素のなか、兄はもしかしてそろそろヤバイのかもしれないとぼんやり思った。何せ話すら通じていないように見えるし。

 そう考えれば色々妄想する、例えばこの場が盗聴されていたら…とか。何かの見すぎだろうか、いや、別に何も見たことはないし。
 ただ、引っ掛かる、違和感しかない。

「とにかく、少し止まって出てましょうか、流石に整えてください」
「てめぇが俺に指図すんな、なんだ、殺すぞてめぇ」

 彼は至って、まるで冷淡な口調、いや、溜め息を押し殺しているのがわかる。
 兄につく人間というより…露骨に愛想がなかった。だけど、兄はやけになっている。

「…兄…ちゃん、」

 言葉を発すれば急に感じ方が変わる。お腹がぎゅと狭くなる。
 それに兄もそろそろ限界だ、もう終わるだろうとわかったのに最後、気を失いそうに出てきた言葉は「やめて、」だった。

 多分これが私の本心なんだと気付いた。

 喉を縮めて兄はイッた。

 汗ばんだ表情はしかし不服そうだ。満足してないという解釈。
 ずるっと抜けた瞬間ですらピリピリ痛い。もしかするとどこか擦り切れたのかもしれないなと、放心しか出来ず。

 はぁ、と息をした兄は「ったく、」とズボンを履いて私を、まるでボロ雑巾のような扱いにした。

「てめぇはここで待ってろ。ま、立てねぇんじゃねぇの?足が震えてるぞ」
「お兄ちゃん、」

 「あ?」と柄の悪い返事から、私はそもそもこの人に何が言いたいんだろうと思った。

「んだよ気持ち悪ぃ、言いたいことなら」
「ごめんなさい」

 …思ってもいなかった、意識にすらあるのか、いや、ありはするけど確実に何も考えてない頭で口から出た言葉はまるで愛液と一緒だと、皮肉に思った。

 別に愛情があるわけじゃないけど。
 一瞬返事に詰まった兄の手をただ少しだけ握った。生臭かった。

 …確かに、兄だって「生きているんだ」と感じるから。

 そうして眠くはないけど兎に角目を閉じる。

 何もかにもに疲れてしまった、どうしてだろう、こう思うのは。ただ、疲れた中で千秋さんの横顔が浮かんだ。

 私はいま生かされたんだ。

 それからいくつか二人は打ち合わせをしていた。
 本当に私はいないもので、それ自体は別にいい、興味がない。

 タバコを吸う姿や話したこと、一気に降りかかるように思い出して、どんなに目を閉じ目蓋に力が入ろうとも、涙は溢れてしまった。

「じゃ、」

 ただ、兄は車を降りる際、その涙を拭ってくれた。
 嫌なわけでもない、ただ、ただ寂しさのような胸の痛みは当たり前に膿んでいる。

 兄が出ると少し、付き人は何かをガチャガチャと弄っていた。
 起き上がってふいに覗けば彼はやっぱり、ドライブレコーダーか何かを私に見せ、「終りますから」と、含みがある笑顔でそう告げた。

「着いていけないんで。あんたも30分くらいで出てった方がいいよ」

 至極興味もなさそうに彼は最後そう言い、ドアは閉められた。

 …そんなこと言われても。
 もうなんでもよくなっている、正直。

 確かに私はこねくりまわしていまここにいるからと、ふと意味もなくケータイを取り出した。

 画面にアプリのメール通知が来ている。

飯島将、新着メッセージがあります。

 意味もなくアプリを開くと、飯島くんの下に千秋さんからの通知が来ていた。

 ただ一件だけの通知で、住所だろうメールが見えた。

「………、」

 それを開いても、本当に住所だけ。
 でも、それはあの千秋さんの自宅だとわかった。

 途端に、胸が痺れた。

 どうして。
 例えばこれを兄が見たらとか、だったらどうしてとか、いや、それよりも濁流のように全てが、溢れてきて。
 素直になれないわけは。

「っはぁ…、」

 いまも充分泣いていて頭が痛いほどなのに。どうして、全部がどうして、キラキラとぼやけて見えるの。

 愛されるものや意味、暖かいものも普通の関係というものも、大体のことはわかりやすく見えていて、ありふれて知っている。

 ただ、この人に「言葉」という安いものが渡せないこの今の気持ちは、知らなかった。いま、どうして心が痛むのか。

 鼻も痛い。だけどやっぱり。
 私は軋む身体よりも、衝動で車を飛び出した。

 助けて欲しいとか、どうにも辛いとかそういうわけでもないのに。

 境界線ははっきり見える、けどその線はたゆんで、混じりあって。この感情の名前は知らないけど、私はいま生きているんだ。

 出なくていい、出ないで欲しい、出ない方がいいと思って手は震えたのに、

『はい、もしもし…』

 不機嫌にすら聞こえる簡素な低音に、私は何も言えずに詰まって、立ち止まった。



〈完〉

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