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 不自然に全ての手続きを、したのかしてないのか、何にせよ切山は即日引っ越しを余儀なくされた。

 と言うより、切山に日向は隣室の鍵を渡した。切山が部屋に行けば、自分が家で使っていた数少ない家具やら荷物がすでに段ボールで積まれていたのだ。

 翌日に切山は一人、1日掛けてその段ボールを開けていき、片付けをしたのだった。

 仕事が入ったらテキトーに呼ぶ、そう切山は言われていた。行動範囲も特に制限されず、仕事、に切山は少々疑問があった。

 片付けが終わってみれば、暇で仕方なかった。自分は今まで朝から晩まで働いていた身だ。せめて何か仕事を貰えないだろうか、勿論殺しが彼の生業なら、それ以外で。そう流石に進言しに行こうかと考えたときだった。

 右隣、日向達とは逆の部屋から、大きな物音がした。何かを殴ったり、雰囲気的には慌ただしく、喧嘩でもしていそうな物音だった。

『あんたなんて、いらないのよ!』

 割れてしまったのではないかというほどに激しく窓が開いた音と、女の怒鳴り声がした。喧嘩、虐待、色々考えられる。ベランダから注意しようか、どうしようかと少し覗いて見たい気持ちになってくれば、女の怒鳴り声。何て言っているかはわからないが「存在しないで」か、何か。

 金切り声のようなそれから、またピシャリとドアと、カーテンがしまるヒステリックな音がした。

 少しの興味があり、切山はベランダから出て、隔たれた壁から隣を覗いてみた。

 自分のベランダのすぐ側に設置された隣室の室外機の側に、頭が見えた。ふと、少し開いた下の隙間を見れば、どうやら人らしく。サンダルと素足が見えた。室外機が邪魔をしていて見えないが、その隙間の人物は震えているように見えた。

 大きさ的に考えて子供が、座っているのかもしれない。だとしたら虐待か、なにかか。とにかく寒空にあの物音のあと、それは尋常ではないなと感じて、切山は小さな声でまた壁から顔を出し、「どうしたの」と声を掛けた。

 頭は動いて顔が見えた。泣いている。少年か少女か定かでないほどに幼い顔で、頬も赤い。完璧に虐待だろうと感じて咄嗟に切山は「おいで」と声を掛けた。

「そこに乗って、こっちにおいで」

 と。しかし、その、薄い長袖Tシャツとズボンを履いた子供は、唖然として切山を見上げた。そして視線をそらし、ベランダの、ガラス張りのような柵の方をぼんやりと見つめ、首を振り、足をもぞもぞとさせた。

 なるほど立てないのか。

 どうしようかと考えていれば日向の部屋の方からガン、と、軽くベランダ壁を叩く音がして振り向いた。

 タバコを吸ってベランダの柵に突っ伏すように腕を付いた間貴志がジェスチャーで「家に来い」と、親指で自分の部屋を指した。

 「動けないみたいですけど…」と小さな声でヒソヒソ話のように切山が言えば「お前が跨いで行けよ」と、今度はタバコを挟んだ指で山を作るような仕草でジェスチャーしてきた。

 いや、このガラス張り柵を見たら無理だわ。手すりは内側にカーブするような弧を描いたもので、足場はあるかもしれないが、ちょっと怖いわと頭で切山は思い、仕方なく、

「少し我慢できるなら、そこに立って欲しい」

 と子供に頼む。子供は、少し考えたように俯いて、室外機を便りにゆっくり痛そうながらも立ち上がり、室外機に乗った。

 すぐさま切山は子供を、壁から身を乗り出すようにして抱き締め、「うぉっ」と危ないながら体に力を入れて自分のベランダに引き入れた。サンダルは片方落ちた。

 どうやら体は小さい。そして軽かった。多分小学校低学年くらいの子だ。これならばと、一瞬よたついたが抱いたまま静かに扉を明け、自分の部屋を通り、日向の家に直行した。

 チャイムを鳴らせば即日向がタバコを咥えたまま扉を開け、「なんだそれは」と無機質に言った。

 なんだ、聞いてないの、相棒に。

 しかしまぁ、「まぁ入れ」と言われ、そのまま招き入れられた。玄関で、「隣の家の子です」と言えば日向は少しだけ眉をピクッとさせてから「あの物音か」と言って、そのままリビングへ一人向かうのが、肯定か否定かわからないが、仕方なく切山はそのままついて行く。

 リビングを日向が開ければふわっとした暖かさとコーヒーの臭いがした。

 細身のスキニージーンズやら、黒いハイヒールやらが何故か行く手に散らばっていて、その先には、先程までベランダに居たはずの間貴志が相変わらず知らん顔で、体育座りをして腹を抱えるように押さえてパソコンに向かっていた。

「…これはなんだ夏音」
「キリヤマくんが困ってたみたいだから」
「お前タバコ吸いに出たんじゃないのか」
「そうだけど、何?」

 凄く二人が不機嫌そうだ。なんだろ、喧嘩でもしたのか。

 漸く間貴志は切山を見上げ、「まだ小さいね」と言って、またパソコンに向かった。

「寒いし風呂でも入れて上げなよ。それともご飯かな。いずれにしても汚いから風呂。
 子供用の服がないからソウちゃんお手製小さすぎるあのパーカーでも出して上げてよソウちゃん。スカートみたいになっちゃうかしら」

 お手製?
 ふと間貴志が笑えば「あぁそう」と日向は目の前の寝室に消えた。

「これ、トキワって読むんだ。
 トキワアオイ…くん。今日我が家は胃に優しく味が濃過ぎるうどんなんだけど、食べられる?」

 切山が抱き締めた子供は頷いた。
 それが見えたか見えてないかはわからないが間貴志はパソコンをじっと眺めたあとに再び切山の方を見て、「キリヤマくん。突っ立ってないで風呂に連れて行ってよ。タオルは棚にあるから」と言った。

「あ、はい」
「服もあるから取り敢えずその汚い洋服は捨てて」

 この脱ぎ散らかしは果たしていいのだろうかとか頭を過り、仕方なく、「えっと…アオイくん?キズとか大丈夫?お風呂入れる?」と切山が訪ねればトキワアオイと言う子供が頷いた。

 日向が青い、確かに裾ばかりが長い小さめのニットを持って寝室から現れ、溜め息を吐いてジーンズとハイヒールを拾い上げ、「風呂、」と無愛想に言った。

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