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『僕の世界は一生微睡みだ』

 ここは君にとってきっと心地の良い、意識など浮遊物のようなものでしかないのだろうと、目の前に眠り、無機質な音で命を繋ぐ友人を見て、太一たいちは皮肉を思い浮かべるのだった。
「太一くん、いらっしゃい」
 滅菌されたその空間から太一の意識は、背後から聞こえた女性の声で現実に引き戻される。

 太一が振り向いて見れば、わりと質量がありそうなピンクのハンドバッグを腕に掛け、ドアの、意味があるのか甚だ疑問であるアルコールを手に振りかけてから微笑みを向ける淑やかな長い髪の女がいた。
 太一の目の前で健やか、悪く言えば死んだように眠っている、あっさりとした顔立ちで黒髪の友人。女との血縁は目尻やら、鼻筋やらで察せる程に、似ていて整っていた。彼女は、この友人の姉である。

 そして友人の姉は毎回通り太一に、「ゆうちゃん、どう?」と、意味のない話題を振ってくる。勿論太一の返事は待たず、椅子を隣に立てて弟を覗き込むのも日課だった。

 彼女が長い髪を耳に掛けるその耳には、太一に覚えがあるピアス。弟を覗く項や、何より彼女の仕草に太一は毎度戸惑って見惚れてしまう。

「あっ、ゆうちゃん」

 彼女の横顔はうっすら、優しいものを見る目で、張った項、首を傾げるように弟を見つめていた。

 彼女の実弟、木宮きみや夕陽ゆうひはここ一年、今彼の枕元にある医療機器と点滴で命を繋いでいる状態だ。
 夕陽は一年前、自殺を図ったのだった。
 彼は心底恐怖に傷付き、陸橋から飛び降り揺らいでさ迷い、落ちた先から少し離れた川岸で発見されたのだ。

 打ち処が悪く、現在彼は遷延性意識障害せんえんせいいしきしょうがい、所謂『植物状態』なのである。
 脳死ではないので呼吸も自発的、脳波もあるが、生命維持の最低限の『脳幹』は生きている。だから食事も点滴、目は開かない。話すことも出来ない、
死骸と大差ない生き方をしているのだ。

「ゆうちゃん、ちょっと笑ってるよ」

 嬉しそうに彼女は言い、夕陽の頬を撫でるように触れ、「良い夢でも見てるのかな?」と太一に訪ねるように言ってくる。

 夕陽の髪を愛しそうに撫でる彼女と夕陽はやはり似ていると太一は感じる。素直に綺麗な人だ。
 だが太一はその、姉の指先にある夕陽に、劣等となにより、薄暗い嫉妬心が沸いてしまう瞬間に、自分が時に嫌いになるのだ。

だから恐らく俺は夕陽を救わなかったんだから。

「そうだね、漸く、眠れたな夕陽」

 半分本音の体裁を、太一は彼女が和らぐように笑顔を薄く向けてぶちまける。
 半分は、不眠に悩んだ友人への気持ちだってある。だがどこかどす黒い気がしてしまっている。

 「ふふっ、」と笑って姉は太一を眺める。
 太一がそれに哀愁も浮かべて然り気無く立ち上がり、彼女の腰元に右手を添えればまた違った表情で見上げられる。
 その姉の瞳には弟、夕陽はいないのだ。今の一瞬ですら自分だけだとわかる。だから敢えて太一はその、彼女に向けた目を夕陽に落として、寝る夕陽に少し体を寄せるのだ。

「夕陽、よかったな…どんな夢見てるんだい?」

気付いているかい夕陽。
君は呼吸がやっと、困難に近いんだよ。
死んでるの、気付いているかい?

 心に漂った言葉に太一は暗く満足を覚える。太一のそれを聞いた彼女が悲しそうに、また夕陽を見ようとするから、手を取って唇を盗む。
 舌で探り当てる思いは、消えそうになってもこうやって繋ぐ。夕陽、見えないだろ。俺がいま探している感情なんて。

 だけど確かに。
 目を開ければ彼女の閉じられた蕩ける二重。横目で眺めた夕陽は微かにだけど、穏やかに見えて。
 傷付いた自分に太一は凍てついてしまう気がした。本当は衝動的に彼女を一瞬だけ、突き飛ばしたくなったが、呑み込んで緩く、手も舌も離す。

「…太一くん?」

 不安そうな彼女の網膜は確かに綺麗だと思う。漂う俺の気持ちはどこに繋がるのか。
 穏やかな夕陽の表情にあの日の残像が見え隠れして霧散してはまた太一を傷付けていく。

見えるものなら、
ごらんよ夕陽、このザマを。笑えるだろう?と皮肉を自分に吐き捨てる。

 俺はお前の最後の笑顔すら知っているのに、いまやこのザマを喜ぶ、そう、彼女との瞬間が愛しくなっているんだよ。

「…晴香はるかさん、」
「どうしたの、太一くん」
「きっと、夕陽は素敵な夢を見てるんですよ。僕らにも、見せたくないほどの」

 晴香は俯いた。微かに、柔らかいシャンプーの匂いが太一の鼻に付く。

夕陽、悪いな。

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