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「行こう、」
僕が強く言えば彼女は息を呑むだけだった。行こう。まだ愛を知らない君に言う。まだ愛を知らない僕が、言う。
汚れた髪も、スカートも、白い滴の跡があるその黒いローファーだって。
僕の胸の水は君の渇きを癒すだろう。飲み干されよう、君になら。
僕は空白の二十年余りを思い出したくないんだ。
「何もかもを、捨て去れるさ」
なんて言った僕と、少し影を落とすように俯いた彼女の、声にならない声を聞いた気がした。
僕らはいま、知りたくもない答えを知ろうとしているのかもしれない。
僕らはそれから歩いて、歩いて。
雲行きは怪しく、雨が降ってきた。
雨に打たれる君に見惚れた僕に君は言う。
「逃げないと、私は変われはしないの?」
人通りもある、水色の街を歩く。
心なら、まだ閉ざしたままで。見た空のような君の瞳にやっぱり、見惚れた僕がいる。
君は疲れて傷付いているだろう。
濡れ鼠になる僕たちは、罪と罰。
嘲笑うヤンキーも過ぎ去る。
光の点り始めた街中で、僕らは漸く宿に行き着いた。
濡れ鼠の僕らを見た宿主は、顔をしかめるも、「一泊泊めてください」と僕が言えば、怪訝な顔だが了承してくれた。
僕らを見た店主はしかし案外親切で、すぐに食事を用意してくれると言った。
彼女がシャワーを浴びている間、僕はこれからを考えた。
僕が貰った金は精々2ユーロ。日本円にしたらいくらだろう。
まぁ、大体フランスの年収の最低ラインくらいは持ち合わせている。
僕はこれを持ってまず、職を探して住居を構え、
なんなら日本へ渡ってもいいかもしれない。
ユカと二人でこれから生きていくには、少し苦労をするかもしれない。
けどきっと、幸せだ。
これは僕が生んだグロテスクなんだろうか。
僕は実のところ、このフランスでのボランティアには疲弊していた。
宛もなくさ迷うようにひたすらボランティアの仕事をするも、沢山の矮小、飢餓、悲しみを見てきた。
勿論、それだけでなく。沢山の恩恵、愛、喜びだって、あったけれど。
たまにどうしようもなく暴れたくなるような瞬間だってあった。救いはやはり、聖書と違う。僅かでちっぽけなものだ。
僕はなぜこんなにも空しいのか、考えたことは今までなかった。心をずっと、棄ててきた気がしている。
手に入れたかった憧れを手にした今や、数時間前までの僕の孤独を、雨として降らせていた。
食事が運ばれた頃、ユカはシャワーを終えた。
その雨はどうやら君を綺麗にしたようだ。
埃も精子も汗もない。髪は水に融けるようで、美しい。
僕は改めて君を見て、見惚れた。
僕の天使はやはり君だ。
しかし君は食事を口にしなかった。
「暫く食べられてないの」
そう言われたら仕方ない。口移しでゆっくりとパンや、シチューを与えていく。
生温い君は壊れた人形のように感じた。
夜は二人、寄り添って寝た。
抱きしめた君は暖かく、フランスの夜には恵みのようで、僕はこっそり泣いてしまったんだ。
ライトもないそのシーツの上で、君はそんな僕の涙を無邪気に拭い、口にして。
その情景は背徳のような気がした。
これを手にした僕にはもう、怖いものなどないだろう。
君を下にしたとき君は、笑ったような、歪んだような表情で、空虚な空気を見つめていた。
僕の今日犯した罪はおそらくこれだ。
でも。
繋がっていたい、この生温い場所は酷く美しいと知る。僕はまだ、君を愛している。ずっと、僕は君しか知らないまま大人になったんだ。
静かな雨の音は止まない。
僕は恍惚のなか、君と来たんだと、胸を焦がした。
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