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「何もないのは寂しいと、屋台で掬った金魚を放ったのが最初だったよ」

 誰がとも言わず。
 がらっと、書斎の隣の襖が開く。

 ゆずさんが布団から這い出るように、四つん這いで襖を開けたのだ。
 僕はそれに一瞬にして硬直しそうになる、そしたら気まずく感じてしまうのだけども、彼は僕を見て微笑んでくれた。

「あぁ、ゆず」

 ゆずさんの着物から見える胸元、鎖骨の下あたりの見えるか見えないかの位置に赤い花のような…掻いた跡なのかなんなのか赤い跡が見えた瞬間に「着物とは」と、漸く意識した僕は目を反らし、背徳を得そうになる。

 それと知らない至っていつものような穏やかさで彼は、僕にこてっと頷くような挨拶をする。
 僕もぎこちなくこてっと、何も言わずに顔を下げたが顔も見れなくなってしまった。

 先生はそれにも気付かない。
 まるで子供のように「見ろよ、」と、嬉しそうに半紙をゆずさんに見せるのにいたたまれなくなった。

「…“木陰”。とても良い出来だよな」

 ましてや…昨夜のことが身に染みる僕の一番隠しておきたい半紙を見せる先生に何かしら言いたいけど、あぁ…歯痒い。
 ゆずさんの顔色を伺えば、先生に同意の「うん、うん」という頷き。
 「あぁすみません」だなんて、なんの謝罪か、僕の口は吐くのだ。

「…お休みの日に」
「いや、いいよ。休みだからこそ。
 君の字は……」

 先生は僕の“木陰”を透かせキラキラした目で「丸くて女性的だな」と言った。

「これは暫く飾ろうか」
「えっ」

 ……酷く恥ずかしい。

「風流でいい」

 僕はそれに息を殺されるような思いがした。

 ゆずさんがニコッと笑い立ち上がる。

「あぁ、悪いな」

 こくっと頷き出て行くゆずさんの背をぼーっと見上げる先生の姿も、確かに休日らしいと思える。
 その妙な間に気付いた先生は「…そういえば」と、徐に話を振ってきた。

「君は何故また…この道に来ようとしたんだ?」

 なんの話か。
 暫し考える間が生まれすぐに、僕の身の上のようなものかと思い付いた。

「いや、まぁ…」
「今時あまりないものだと思っていただけに、聞いてみたい。深い意味はないけども」
「…ご無礼を承知で申し上げれば、…雰囲気というもので…」

 僕は、まだ早世ながらどこかこの世に飽きていた。

「雰囲気…」
「なんと言えば良いのか…葛藤のうちのひとつで、高校に行く、ということは想像が出来なくて」
「それにしては変わった道だと思うけど…」
「…習字だけは、僕が唯一褒められた物だったんです。あとはからっきしダメで…でも」

 中学で、破かれてしまった半紙を思い出す。

 あれはどうやらごった返したカオスな休み時間に、誰かが飛ばした上履きが当たり破けたと後に知った。それは県大会で準優勝の書だった。

 皮肉にも「夢」の半分が、その教室で夕陽に照らされていた。たったそれだけの、面白味もない話でしかない。

「“夢”と言う字が破かれた先を見てみたいと…ただそれだけの理由で」
「何かを感じたのか」
「ええ、きっと……曖昧ですが」
「なるほど、答えられるのなら間違いのない理由だな」

 先生は微笑んでくれた。

「俺より君は感性に優れているな。
 こう言っちゃなんだけど、俺は不得意な癖にサッカーが好きだったぞ。書など嫌いだった」
「…そうなんですか」
「字も下手で漢字も大して…いや、まぁ、普通よりは知っていたのかもしれないけれど。大して知らないまま跡を継いだな。こうなるといざというときに困ることも…あったりする」

 そして先生は自然と、庭なのか、それともその先を眺めたのか、しかし障子が一枚隔たれている、何かを思案しているのは確かな表情を見せる。

 先にはゆずさんがいるんだろうかとぼんやり、当たり前に僕は考えた。

 …伸びた背筋、シャツに通るサスペンダーが肩から落ちかけている。それすら僕にはなんだか、洒落た佇まいだと感じる。

「…こういう、昔からの文化は、僕には凄く品があるように見えます」
「そうか」
「先生にもそう感じることはありますか?」
「あるな。君と俺は多少似ている」
「そうなんですか」
「ふと見て…なんだかグッとくる、その気持ちは、しかしよくあることでもない。
 そんなに簡単なら、多分余程の変わり者ですらも飛び込もうとは出来ない道だろうし」

 話しながら先生は、下がったサスペンダーを自然と直し、筆を再び取る。

「道を捨てる、いや、拾わない選択肢にいない、というのはそんなもんかもな」

 半紙にすらっと、癖のある丸い跳ね、にすいのようになった「浮」と先生が書き終えた時、静かにゆずさんが戸を開けた。

 急須にお茶を用意したゆずさんに、はっとする。

「…すみませんゆずさん。僕がお持ちするべきでした、」

 しかしゆずさんは首を少し傾げ、軽く右手の甲を振ってまるで「気にしないで」とでも言うように茶を3つの湯飲みに注いでくれた。
 所作すらとても優雅で、茶がきらきら光って見えそうな程。

 僕は少し過剰なのかもしれない。

 ゆったりと3人でお茶を飲んだ。

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