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「あぁ、お持ちになるのですか旦那様」
「ん?あぁ」
ちらっと中川さんが僕を見るので、「あっ…えっと僕が」とまで言ったが「ははは」と先生は爽やかに笑う。
「いい、いい。君はまぁ茶でも飲んで、中川さんを手伝ってやってくれ」
「ですが…」
「ゆずもまだ寝ているから、寝かせておきたいんだ」
「あら、いつもお早いですのに。お具合が宜しくないんでしょうか?」
「いや、そういうんじゃなさそうだ。ぐっすり寝ている」
「そうですか…」
中川さんはそれ以上何も言わなかった。
果たして、中川さんは二人の関係を知っているのだろうか。
その場になんとも言えないような、そんな雰囲気が漂っていると思う僕は、昨夜を思い出しそうだという心に、一度蓋を閉める。
先生は急須と茶を持って台所から去って行った。
僕は先生が淹れてくれた茶を飲み干し、改めて中川さんに謝り、朝飯の準備を手伝う。これで漸く日常と化した。この感覚が不思議だ。何が起きても、変わらないそれが。
「中川さん」
「どうしたの?」
「その……」
しかし、何を聞こうにも頭の奥ではやはり昨夜のことばかりが浮かんでくる。
「ゆずさんとは、一体どのようなお方なのですか?」
「あら、そうねぇ……あまり出て来れないもんねぇ。そうね、きっとそうなると、ミステリアスって感じよね……。
とても優しい方よ。
いつもはお茶も、朝早くゆずさんがお淹れになるんだけど…今日はやっぱり具合が優れないのかしらねぇ。昔から少し身体が丈夫じゃなくて」
「そうなんですね、」
「まぁ…結構大変みたいなのよ」
「…先生の親戚の方だと最初にお聞きしました」
「そう。ゆずさんのお母様はお花の先生でねぇ」
「そうだったんですか、」
「あの子は継がなかったんだけどねぇ」
そうだったのか。
なるほど、書道と華道。やはりこの家は古くも、伝統深いようだ。
「…ゆずさんのお母様というのは…」
「3年ほど前にお亡くなりになってしまったの。その前から身体もよくなくて、まぁ、この家に来たのよ」
「そうだったんですね」
家を継げなかったのは、やはり身体が弱いことや話せないことが原因なんだろうか。
…本当は喋れると昨日知ったのだけども。
「まぁ、圭太ちゃんはここにお勤めになっているから言うけど、親戚というのは親戚だけども、先代の修介さんが引き取った子なのよ。
旦那様とゆずさんは同じ小学校の同級生で、修介さんとゆずさんのお母様は二人の小学校で師範をしていてね、接点があったみたい」
「なるほど…」
「養子縁組というやつね」
…意味深というよりも。
意味深というよりもそれは、意味がありすぎる。
そういうものだろうとはどこかで思っていたけれども、尚更、これ以上は聞けないものかもしれない。
そうですか、と中川さんに返事をしたが繋がなければと、考えもせずに浮かんだ問いは「ゆずさんは、手話なんでしょうか」と我ながら頓珍漢になってしまった。
あぁ、いえ。そんなことは気にしなくて大丈夫よという中川さんの“慣れ”感に、すべて承知か全く無縁かというのすら曖昧になる。
それから朝飯を作り終え、先生を呼びに行った中川さんは結局一人で帰ってきた。
「やはりお具合が悪いのかしら…」
それすらも意味がありすぎて僕の中で曖昧になってゆく。よもやそれは夢のように…いや、本当は春画のようなものだという暗い思いを僕は今日、しょうもなく抱えるしかないようだ。
食事を終え僕は中川さんに詳しく染み抜きの仕方を教わりシーツを庭に干した。
朝10時くらいの、眠れない日にふわっと、眠くなるような柔らかな日差し。
少しした、二人分の朝飯がなくなっているだろう頃に、僕は先生の部屋へそれを下げに行こうとした。
しかし食器は部屋でもなく書斎の縁側にある。
僕はその障子を開ける。
やはり先生は半紙に向かい、墨を摺っているところだった。
「…あぁ、」
先生は少し笑って僕を自分の向かいに促した。
それに従い僕が正座をすると、先生は一息を吐いて筆を取り『鼻』と書いては楽しそうに僕を見るのみ。
“お習字”とはまるで違う、サインのような書き崩しのデザインが一瞬読めなかった。
黙って正座をしたまま待つと、先生は半紙の束を用意した。
僕はそれに向かい合ったままに新しい半紙に筆を取り「花」と、至ってお習字のままに書く。
先生がそれに連想した「赤」、僕は次に「金魚」、そして「池」「庭」「波紋」「石」と…いつも通りの連想ゲームが始まった。
僕はこの人の…どこかゆったりとした価値観が好きだ。ユーモアやセンスだって感じる。
僕はただ、枕が変わって、無駄にセンチメンタルで、だからあの落ち着く庭の池の音を静かに聞こうと思っていただけだったんだ。
僕が「木陰」と書くと、先生はニヤリと笑って顔を上げる。
「君はその庭が好きか?」
「…はい」
……“灯”。
ゆったりと、いつの間にか満ち去る海のような足元にはっとすることが暫しある、この人は。僕の書の“師”であり雇い主。
雇い主は結局「お習字」の先生ではなかった。けれどそれは、僕がここに入ろうとした際にはわかっていたことだった。
「始めは殺風景だったんだけどな」
筆を止めた先生が、庭を眺めてそう言った。
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