8


 起きたとき、一瞬世界がわからなかった。
 真っ暗で、どこか全体的に静かな雰囲気に呑まれていて、しまったと僕は慌てて台所向かう。
 
 丁度帰宅した先生が冷蔵庫から水を取り出し飲んでいるところだった。

「あっ…おかえりなさい」
「ただいま。今起きたのか」
「…すみません、どうやら寝てしまっていたらしく…」
「ははは、きっと明日は中川さんの機嫌がいまいちだな。そうか、この食事は君のだったのか」

 台所のテーブルにはラップが掛けられた夕飯が2食、置かれていた。チキン南蛮と麩の味噌汁とおひたしときんぴらごぼう。

 「折角だから一緒に」と穏やかに言った先生に、僕は小さく頷くことしか出来なかった。

 辛うじて僕の仕事は夕飯を温め直しお茶を入れるのみになってしまったらしい。

「申し訳ございません、その…あの後ぐっすり寝てしまって…」
「まぁそんなこともあるな」
「ゆずさんにも…こまめに伺いますと言ったのに…」
「ゆずの事はきっと中川さんが気に掛けてくれただろう。まぁ俺も今帰った訳だし、今夜は俺がつくよ」

 食卓についた先生は手を合わせて「頂きます」と食べ始める。
 僕もそれに習い夕飯に手をつけた。

「あぁ、先に風呂を頂いてもいいかな」
「はい、大丈夫です」
「明日は一応10時から先方に伺うことになってる。主にレイアウトの確認で、書以外の装飾をすることになる。
 君はまぁ、着いて来て手順を学んでくれ。意見も欲しい。本格的な飾りつけが明後日になるかな」
「わかりました」

 僕は本格的に、弟子のようなポジションになったようだ。
 今まではこれを、先生ひとりでやってきたのか。

「…先生は何故僕をあっさり弟子にしてくれたのですか?」
「ん?」
「いや…、僕はまだ来て間もないですが、全然相応に何も出来ていなくて」
「…何故と言われれば、特に断る理由がないだけで。それがどうした?」

 …なるほど。

「そうですか…」

 深い意味はない。
 寂しいような、いや、それは傲っている。却って自由なような気さえしてきた、一気に。
 だとすれば、お手伝いの中川さんは先代からとして、ゆずさんはどうなんだろうか。

「…少し聞いてもいいですか」
「何?」

 先生はチキン南蛮を、非常に綺麗に、旨そうに食べている。

「…ゆずさんは一体どうして…」

 しかし、先生はどうやらその質問に箸を止めた。
 ふいに先生はなんだかいつもと違う、口角を上げる笑みをして「なんとなくだ」とハッキリと答えた。

「…気付いたら、家にいた。自然現象のように」

 遠い目をする先生はまたいつものように笑い、「家族に理由なんて、大してないだろ」と続けた。

「…確かに…」

 …きっと。
 先生には縁談の話くらいはあったのではないかと思える、少なくても先代が生きていた頃くらいは。
 そう考えるとやはり先生が、夜にゆずさんの部屋へ行き来しているそれが原因なんではないかと思える。

 妙な背徳感と、モヤモヤした何かはあの日から僕のなかにずっとある。
 例えば、この後先生はゆずさんを抱くのだろうか、やはり体調故にそれはないのだろうか、などと考えてしまうのだ。

 …どうして僕は先生がいない間、眠ってしまったのだろうか。特に…勿論本当に僕がそういった関係を…そんなことはない、ただ、看病すれば少し近付けたかもしれなだなんて考えるのが浅ましくも。

「先生が心を許すのは、勿論ゆずさんなんでしょう?」
「…ははっ!」

 なんだか不思議なことを言うな、だなんて言って先生は笑うのだった。

「…暫く俺は帰りも…まぁ18時に閉館してと…そうなるから、君と中川さんにはその間ゆずを頼みたい。調子が良いときに縁側でのんびりとしてくれれば、それだけで寂しくないと思う。
 ゆずは、幼い頃に両親と離れ離れになってしまってな。素振りは見せないがきっと…そんな時がある」
「中川さんに聞きました、お花の先生だと…」
「…………あぁ、」

 初めて、先生は切なそうな顔をした。

「あいつもそれまでは花をやっていた。から、詳しいんだ。きっと話も楽しいぞ」

 そう言って夕飯を平らげた先生は「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
 きっと少し、僕ははぐらかされたのだ。

 僕も食べ終えてから食器を洗い、後に風呂を貰い、寝室に戻った。

 その日、灯りは点いていた。
 しかし、影ではゆずさんの隣に片肘で寄り添う先生、ゆずさんが先生に腕を伸ばして顔を重ねて灯りは消えてしまった。

 もしも僕だったら、あのしなやかな腕を取ったかもしれない、そんなときあの人はどんな表情なんだろうかと、考えるのにどこか切なく、昼間のせいもあっただろうか、僕はその夜、熱もなく眠ることが出来た。

- 8 -

*前次#


ページ: