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 南無大師なむだいし遍照金剛へんじょうこんごう、 南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛………。

 水がキラキラと朝日に照らされている。
 さっさ、と、墓石を擦る音と頭を流れる真言の経。

 この墓はあの、醤油屋の墓だ。
 それぞれの檀家への「懺悔文」に対しての返答はちらほらと返ってきている。

 大抵の檀家は宗派にあまりこだわりもなく、寧ろご近所さんで代々と受け継いできた物としての認識くらいしかないものだ。

 醤油屋もその例に漏れなかったが、違った点は、元々ここはご近所さんではないし、代々でもない。
 以前に話した法要の件もあったし、朱鷺貴はこれを機会に変経も奨めてみた。が、結果壮士がなんとか、これからの面倒を見てくれることになったのだ。

 醤油屋の最後の一文に「寂しくなりますね、ご自愛くださいませ」と質素に書いてあったのには感慨深くなったものだ。

 さて……と、石を磨き終え、乾いた場所の砂を半紙に取って一息を吐く。
 手紙の返信を考えていた。

 …真言の教えに、少しだけ納得するところがある。
 人の亡骸は不思議と、どういう原理か数年も経てば見当たらず自然と土になっている。特に、狐狼狸で火葬したものは早い。

 きっと、これが即身成仏の教えなのだろうと、それぞれ土は檀家の元と受け入れ先に送ろうと考え、それも手紙に記載することにしたのだ。
 こうすれば新しい場所でも、培われた檀家の歴史は変わらないだろうというせめてもの思いだが、それも返答次第にしている。

 そして目に付く、無縁仏や首塚。
 近年これは増えていた。

 こればかりは、自分が死ぬか辞めるかするまでは面倒を見るしかない、そうなれば自分が「永代供養」とするのかと、我が儘を改めて実感する。

 例えばこの残された寺で一人息を止めれば、そう、幹斎は自分を引き取った際、戒名の位だなんだと言っていた。
 しかし一人ならば、それは最早この墓と恐らく変わりはなく終わる。

 もしかすると、そうなって漸く教えを手放すのかもしれないなと、朱鷺貴はしゃがんでいた腰をあげ「はーっ!」と伸びをした。
 見計らったかのようにふと、「トキさん」と声が掛かった。

「…おぅ、」
「お早くもお疲れ様やね」
「んーまぁ、早くからやらんと終わらない」
「トキさんきっと夢中になっとる思いましたんで、呼びに来たんですよ」
「……ん?」
「悠禅さんです」

 そうだった、忘れそうだった。

「そうか、今日か」

 ひとりでに腰をポンポン叩き、翡翠と共に堂へ戻る。

 あれから特に時間を掛け話をし、ついに悠禅の行く先が決まったのだ。
 今日は、それを見送らねばならない。

 他の者も、二、三人はこの寺を去って行った。
 坊主を辞めて実家に帰るものも居たし、別の寺へ移る者もいた。
 半分とまでは行かないが、壮士と共に行くと決めた者もいる。

 が、意外にもこっちの方が難航していた。なんせ、一人二人の話ではない。

 朱鷺貴もこの機に犇々と知ることになったが、浪人を受け入れる寺院が予想以上に多くある、これは先の長州への政変から顕著なようだ。
 それ故、食客問題が発生している場合があるらしい。特に、京の寺院では。

 それは、市中に行けば尚更で。

 案外京の者はどうやら、長州藩に対して悪感情がなく寧ろ同情的で、相対して朝廷や幕府に対しての不満が蔓延しているという空気感が、手紙のやり取りで伝わってきた。

 朱鷺貴はどうやら本当に時勢の逆を進んでいる。

 比較的に佐幕派や勤王派の浪人を受け入れている寺に頼みやすいのだが、ここを去った数名もどうやら、確かに浪人達との触れ合いが僅かばかりあったからかもしれない。それでは不満だと自ら去って行ったのだ。

 実は、今のところ壮士の元へと考えている者達にも、その思考は少なからずいた。

「全く……檀家様すら、宗派に寛容やのになぁ」

 という愚痴のような物を、壮士本人から最近聞くようになった。

 まぁ……却ってきっと、坊主だから成る思考だろうと朱鷺貴は捉えている。主として奉る神の違いが宗派となっているのだから。
 俗世も寺も本質は全く変わらない。元々妄信的な面はあるのだ。

 変わった形で時勢を体感したような気がしていた。
 それぞれが教えや生き方を改めて考える機会になったのは確からしいけど。

 境内には主に小姓達を中心に集まっていた。
 確かに、引き続き小姓以外は葬儀のみなら受け持っている。なかなか全員揃うとまではいかない。

 中心には当の悠禅がおり、朱鷺貴と翡翠を見つけると「あ、お二人とも…」と、感慨深そうに頭を下げた。

「わざわざお忙しい中、すみません」

 藁を持ったままの朱鷺貴に「石掃除でしたか」と気遣ってくる。

「まぁ、そうだな…」

 小姓達がそれぞれ「あちらでも頑張って」だのなんだのと挨拶を交わしているのだが、特に言うことが…案外思い浮かばないものだ。

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