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ふと翡翠が、朱鷺貴よりも前に出る。
「壬生浪さんは口も素行も悪いですが、悪い方々ではないはずなんで。まぁ、少々喧嘩っ早いようですが」
そう言って悠禅の手を取り「気張って」と声を掛けている。
話していくうちに悠禅は、壬生寺に行くことで了承してくれたのだ。
悪いことだとは思っていないが、妥協をさせたような気もしてしまっている。
悠禅は良くも悪くもどこか聞き分けが良く、利口な子供だった。
「…翡翠さん、今までありがとうございました。
最初は実は…私は貴方を妙に苦手でした。敵対心のようなものすら、多分あった」
…そうだったな。
「ははは、まぁ、そうやろう、自然ですよ。言うてくれておおきにな」
「今では好きですよ。是非、この寺…いや、朱鷺貴殿のお手伝いを、果たしてください」
「なんや、そうもあんさんに言われると染みるなぁ、やめてや、今生の別れやないんやで、全く…。
あんさん町中や、ホンマに気ぃつけてな」
ぎゅっと手を握るのを見てつい、「悠禅、」と声ばかりが出て行く。
「…何一つ俺は、君にしてやれることが、なかったけど……」
辛いことを増してしまったような気がする、大人としての押し付けばかりを背負わせてしまったという自戒が、朱鷺貴にはずっとあった。
「…では、始まりとして…
我昔所造諸悪業 …しかし、少し勉強致しました。律宗は真言であっても、経より規則という考えなんですって。
私はこれから250の具足戒を受けに行ってきます」
「…そうか、」
語った悠禅の笑みに、朱鷺貴もふと笑い「なるほどな」と返す。
「元気で」
それに悠禅がペコッと頭を下げる。
小姓には泣く者もいた、朱鷺貴にも感慨深かったし、立派に去る背に上がってくる熱い感情もあった。
それは充分に志士にも引けを取らぬ背だと感じる。
彼は朱鷺貴より半分も若い。
これからも自分の学びに突っ掛かりながら、掴みながら、広い心を持つのだろう。
舎利子よ、この上なき悟れ。君は、遠離一切転倒夢想の境地へと。
「なんや寂しゅうなりまんなぁ…」と、素直に言った翡翠へ「今生の別れじゃないんだから」と反芻しておいた。
背も見えなくなったところで「さて、仕事だ仕事」と手を叩く。
これでも、甚く平和な日常なのだから。
「君たちも知恵の完成へ。俺は一通り仕事を終えたし部屋にいるから。何か思い付いたら来てくれ」
そう言うと小姓達は即、「はいはーい!」と手を上げた。
「朱鷺貴殿、具足戒とはなんですかー?」
「あぁ、今だとあまり馴染みないからなぁ。平安まではあったらしいが、十戒ってあるだろ。あれの元になった教えだよ。律宗は真言の元祖だから」
「250って言ってましたが」
「要するに十戒はまとめてあるわけだが…敵わんな。俺には無理だ」
うわぁ、だの、凄…だのと呟きが聞こえる。
今日も平和な気がしてしまうのに、こうして弟子が一人出て行った。
どうも、現実味にいつだって欠けてしまっているのもいかんなと、朝から肩に力を入れた。
「…っはぁ、柄になく少し泣きそうになりましたわぁ…わても歳を取りましたかね…」
「まだまだ若者だろ。
そうだ、少し前に考えてたんだ。お前、ここへ来たとき18と言ってたっけか?」
「変なところばかり覚えていますなぁ。覚えてませんよ、自分の歳なんて」
「…あっそ、」
「あんさんはあんとき26やったっけね。
あれぇ、もうぼちぼちと三十路になりますか!?」
「…俺も歳を食ったもんだな、だからか…」
最近染々することが増えたものだ。
翡翠が「あ!泣きそうになったんやね!?」とはしゃいでいる。
はいはい若干はキましたよと「うるせぇペラペラと!」と、まるで時間を忘れそうになるのもよくあることだ。
…まるで置いていかれているような気にもなる。例えば、夢のようなもの。夢の景色はわりと、子供の頃のことが多い。
随分遠くまで来た、あの頃の自分。こうでなければどうだったのだろうか。こうして振り向くことはきっと“知恵の完成”に離れて行ってしまう…のかは、わからないが。
「…悠禅にあぁは言われたが、お前もいつか、考えるんだぞ」
部屋の戸を開けた。
同時に「え?」と、まるで翡翠が先程までとは変わり、唖然としたように言うのだから、妙な空気になる。
「……え?て」
「…そう、なんですか?」
「は?」
「いや……」
翡翠はぽけっとしたまま部屋に入り、しかしまた落ち着かないような、いや、心ここに有らずという忙しなさで「あぁ茶を煎れよ…」と急にそうなるのだから、朱鷺貴もあれ?となった。
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