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 確かそれら一式は火曜、一週間でいう“比較的暇な曜日の一位か二位首位争いの日”にデスクに置いておいた。

「おはよう駒越こまごえくん」

 現在木曜日、そこそこ忙しい曜日の朝。

「…おはようございます、社長」

 社長はまるで表情も変えず、興味もなさそうな態度で三つの封筒を開け、「ふーん」と言った。

「一身上の都合」

 わざわざ自分の目の前でいま、こうされていることに、凌辱に似た気まずさを覚える。

 自分は確かに「もうなんだっていい」と、わざわざ片付いたデスクの上に退職願い、退職届け、辞表を並べて確実に置いたのだ、こうなることは完全にわかっていた。

 昨日、封筒はなくなっていて、なのになんの話題にも上がらなかったからには、社長はそれらを捨ててしまったのかもしれない、いや、一日で紛れてしまったのか、とそわそわして今日に至ったのだが。

「…はい」
「ふーん、日付すらないけど、今月いっぱい?あと一週間くらいかな」
「早急というわけでも」
「いや、ここに第一に一式を置いてるからには早急なんでしょ。
 しかし驚いたな。君ほどの男が『一ヶ月前申請』というのも忘れてしまうなんて。余程の用事が出来たのかな。何?お母さんでも倒れましたか?」
「いえ、」
「そう?じゃあお父さん?」
「あの、違います」

 自分が実家と少々離縁気味だというのを社長は知っていてこう言っているはずだ。
 何か嫌味の一つや二つを言ってくるだろうとは思っていたが、次には「じゃあおばあちゃんかな」と掘り下げてくる。

「……私の祖父母は両名とも少し前に他界しています…。その際には少しのお休みとご香典を頂いたと記憶していますよ…」
「あぁそうだったね、立て続けだからあれは少しではなかったけども」
「……両親とは少々折り合いが悪く、」
「そんなこと言ったって、葬式には出るでしょうよ」
「わかりませんけど…」

 「ふーん…」と社長は考えるようにそれら、文言もほぼ変わらない紙を代わる代わる眺めている。
 次は何を言われるかと、社長が頬杖を付いているのを眺めて予想をする。弟か姉か。

 弟は自分を蔑んでいるから、こっちか。
 死ぬのは無理があるから「どこかの女に貢いで借金まみれになってしまい、兄の自分が臓器を売られそうだという一大事」くらいの設定を付けてくるかもしれない。

 …正直それでもいいな、辞められるのであれば。
 それですらも「弟なんて縁切ればいいでしょ」と、紙屑ごと容赦なく切り捨てそうな人だけど。

 姉が男に捨てられシングルマザーになりそうで…と、自分も何を考えているんだと思った最中。

「はいはいっと、」

 社長が引き出しから判子を取り出し、あっさりと目の前でポンポンと押し、「離職証明書印刷して」と自分に指示を出してきたことに「は!?」と、思わず声が漏れた。

「ん?必要かもしれないでしょ」
「え、あ、はい…」
「要らなくてもまぁ、職が見つかるまでは持っときなよ。君、新卒から辞めたことないから知らないでしょ」
「あ、はい…確かに」
「あと今日はなんだっけ」
「あ、はい…10時から六本木ろっぽんぎでセミナーと、」

 (昼休憩を挟み)13時から証券会社との会合、15時から先日のスポーツブランドとの商談、(この間に20分ほど空きそう)18時の定時には一応帰社予定……だなんて、予定を告げていれば何故か悲しくなってきた。

 結局、流され手帳を開いてしまっている自分。

「じゃ、出して」

 …こんなにあっさりといってしまったか。
 入社6年の積み上げはこうして目に見えるからこそ…これは拍子抜けなんだろうか。ほっとしたのだろうか。まるでなんともない話、のような。

 そうか。
 自分程度、よくよく考えれば少し、歳のわりに異例も異例な出世をした、というだけだったな。

「畏まりました」

 よく考えればどうしてこうなっているのか、わからないままだった。
 これ以上は何も求めることが出来ないしと、野心もただ落ち着いてきたのだと思うことにしたのはいつからか。

 社長は急ぐようにジャケットを羽織った。
 僅かに香るポマードの匂い、オシャレ白髪。自分にはこれが似合う大人にはなれそうにない。

「今日は楽だな…」
「そうですね。セミナーは…15時で調整してもよかったかなと少し思ったんですけどね」
「まぁ不満はないよ駒越くん。間に入れられたら気持ちが怠ける」

 まぁよく知ってますよ、そのへんは。あっさりと退職が許されましたが3年やってますんで。

 社長様護送用の高級外車も始めはおっかなびっくりで、漸く完全に任せてくれるまでに半年は掛かった。最初は角を削ってしまったことだってあったのだ。

 「社長、セミナー後は何食べますか」だとか、「商談前はスタバでいいですか」だとか、いつも通りの業務的な会話と。

 「あぁ、パスタにしよう。前に行ったとこ」だとか、「うんいいよ」だとか、いつもより味気ない返答と。

 自分から言い出した癖に、感慨深くすらなるのが不思議だった。

 あのイタリアンは始めの頃、合間に二人で探した場所だ。スタバ文化だって、自分がこの、20も歳の離れた男に教えたのだけど。

 終わってしまえばあっさりしたものだ。でも、仕事だ。それだけ。それ以上であり以下はなかった、というだけのことなのかもしれない。

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