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 雑魚寝部屋の料理番達が出て行き、ぼんやりしたままあても料理長の部屋から出る。

「あ、あの」

 すると一人、新参の少年がまるで待っていたかのように、伏し目でそこに立っていた。

「おはよう…ございます」

 …気付かれてしまったかな。

 兎に角挨拶を返すと、彼ははっとし、そそくさと台所に向かって行った。

「あーあ、知られてしもうたかもなぁ」

 心の声でも代弁するような一言が聞こえた。
 奈木も、待っていましたと言わんばかりに隣の個室から顔を覗かせ、出て来て襖に寄り掛かった。

 …なるほど。

「はっは、しんどそうやと思たんやけどなぁ、おはようさん」

 奈木は目を細め「客取れたんやってなぁ」と嫌味ったらしく言ってきた。

「満足せんかったんやろ?なんや遠目からでももっさいおっさんやったもんなぁ」

 …上方で言うところの、やすけない人。

 関わり合いたくもないしなと軽く頭を下げて去ろうとすれば「料理長はどないや?」と聞いてくる。

「まぁ、あんさんはもう売り子やないしなぁ。満足させてやっとる?」

 …ほんま、よう喋る人。

 見世に戻ろうにも、奈木は後ろから着いてきて「まぁ、ええならええけどね、はは、今日日きょーび暇なんよなぁ」と一人で喋る。

「相手にされるうちが華やね、」

 完全に無視をしてすたすた早足になったが、はっと奈木に手を取られ、壁に押し付けられてしまった。
 …朝にしては、濃いほどの口付け。

「上方作法わかるよなぁ?待っとったんやけど」

 奈木は得意気に首…喉を一撫でし「まぁだ上手ないな」と見下ろしてくる。

「あのドラ息子ん時は来たやないか、足りない足りないて。まぁ別に」

 パン、と手を叩く音がした。
 はじめが「おはようさん、奈木さん」と、整った顔立ちで睨むように制する。

「今日も一日その意気で」
「はは、弟に見られてしもたなみ空。堪忍してや楼主はん」

 一はピクッと眉を寄せ「構いませんが、風紀に悪いですね」と、不愉快そうにそう言った。

「み空兄さんは見世に戻ってくださいね、折角あるんだから。と言うより今日は不寝番ねずばんを頼みに来ましたが、よろしいですか?」

 …まぁ、さっきまで寝ていたようだしな。
 一に二回頭を下げ、あては見世に戻ることにした。
 後ろで「楼主から直々にか、ええご身分やな」と奈木の嫌味が聞こえる。

 …本当は一の方が、役者であれば向いている。それは、喉の問題ではなく。

 母親も多分、それで仕送りを望んだのだと思うが、一の母親はそこまで世間を知らなかったというより、借金を作ってまで遊んだ割には流行りに疎かった…いや、世間に着いていけていなかった。

 一の母親があてと一を置いていった先は、確かに陰間もいるが、若衆茶屋だったのだ。
 
 それでも充分、一はあてのように唖者あしゃでもないのだし、役者になればよかったのではないかと思うが、元楼主はそうしなかった。

 それはそれでこんなこと、有り難いのかもしれないが、だからこそあてのことで一がこれほど背負う必要はないのだ。
 あてはどこか素直ではないから、こうしていることがどこか…一への嫌味なのではないかと思ってしまっている。

 一は、あてが元楼主に弄ばれている様をずっと見せられていた。そして、「無理だろ?」と、今の道を決めたのだ。

 子供の頃のことを未だに背負う必要などない…。

 あてはひとつ、後悔している。

 これほど綺麗事ばかりを並べても一度、それは奈木があての仕込みに着いた頃だった。
 あては声が出ないのを良いことに、「なんであてばかり」と思いながら、一を睨み付けてしまったことがあった。

 あの日の一の表情を忘れられない。
 お陰であの、あての袖を握りしめていた義弟はしっかり者になったのだとは、思うようにしているけれど。

 見世に戻るとすぐ、「にぃさんにーさん!」と、弟分のかなめが嬉しそうにやってきた。

 無邪気に笑う要は三味線を持ち「きょぅもお願い出来ますか!?」と少しだけ喋りにくそうに聞いてくる。
 あては朝からの憂鬱な気分を脱ぎ捨てるように笑顔を作り、頷いた。

「やった!やったぁ!」

 …まぁ、作らなくても要の笑顔は己の中で、和んで行く。
 そばかすで、ニッと笑う要の前歯は二本、短い。

 少し前、糸切り歯を気にして無理に抜いたのだ。そしたら、抜け掛けていた隣の歯も一緒に抜けてしまった。恐らく新造の雑魚寝部屋で誰かに嫌なことでも言われたのだろう。
 
 さぞや痛かったろうと、あては要と一緒に、また綺麗に生えるといいねと、その歯を土に埋めた。

 彼が役者志望かはきっとまだわからないが、それがあり…今は少し、役者顔ではなくなっている。
 もう、乳歯が抜けてしまった頃か…とぼんやりとした言い知れぬ切なさ、いや、不安が立ち塞がり、けれどもあては「やろっか、」と微笑むしかない。

 要が三味線を持つと、いくら細棹、長唄三味線だとは言え、やはり大きく見える。

 こんなものだって、ここで働いていく一つの手立てで、生きる糧だ…そう。生きる糧なのだ。

 彼がどうしてここにいるのか、深く聞かないようにしたのだし、嫌なことだとも限らない。
 事実あては男を楽しむ…つまり、仕事を楽しむ面があったのだし。

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