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 震える手で腕をぎゅっとし、絞り出せた声は「ありがと」だった。
 使用人は「葵様」と他人行儀に自分を呼ぶ。
 彼がいる場所までは距離があるのに。かっと熱くなりつい、すぐにその場を離れてしまった。

「…高塚さん」
「どうされました、葵さ」
「空って…何色なんでしょうか」

 …夏の、熱い日。太陽は照っていた。あの光は透明ではなく、「白だ」と思っていた自分。

 彼が見上げていたであろう日光は、一体何色の目眩だったのだろうかと、思いを馳せる。

「…空、ですか」

 少し下がった声色。
 彼女は少し柔らかく「空色なんでしょうかね」と言った。
 振り向かずとも、背をさすってくれた彼女は「薄めたスポーツドリンクをお持ちしますね、よくお眠りください」と言った。

「お熱もあるようですし、脱水症状になってしまいます」
「……はい、すみません、ありがとうございます」
「いえ」

 彼女はニコッと笑い「なんでもお申し付けください」と部屋まで付き添い去って行く。

 本当はお風呂に入りたいけれど、今は気力がないし、恐らく家の誰もが、当たり前に自分の熱の正体を知らない。

 腹の底からくつくつと、何かが噴き上がるのを感じる。

 葵がベッドに入るとすぐ、矢幡さんの方がノートの写しを持ってきてくれた。

「あ、すみません、置いておきますね」

 矢幡さんがそそくさと机にそれを置き去ろうとしたけれど「見せてください」と手を伸ばし、受け取った。

 …こうちゃんに気付かれてしまった。印刷物だと特にそれを感じる。裕翔くんの字は青か…茶色か、黒しかない。
 こうちゃんもそれは同じだけれど、違うのだとハッキリとわかる。

 それだけ見ても、やはり熱くなる。
 やり込めない熱さに「ありがとうございます」と、それを返す。
 矢幡さんは今度こそ机にそれを置き、「お夕飯は、何か優しいものを作りますね」と部屋を後にした。

 …厄介だろうな。何この気持ち。

 …いや、逆に厄介でもなんでもないか。これは彼女たちの仕事で、版書と同じ。大して意味もなくやらねばならない食い扶持、厄介という意識すら掠めないのかもしれない、きっと葵の行動は一連で「意味不明」だろう。

 これも、鏡文字に近い。

 桐生がここを出て行く際に言い捨てた、「君は替えだ」という意味がわかったのは、ここに来て数日後だった。
 彼はその際にこうも言った、「多分、数年くらいだよ」と。

『君の養父さんは子供が出来ないんだよ。だから、子供が大好きなんだ。
 可哀想だろ?慰めてあげて。きっと寂しいだろうから』

 子供にはわかりにくい言葉、ただただ表面をなぞるだけでは飽きたらない意味。

 でも、本意を知っても子供の頃から一筋、変わらない一本がある。それは「彼が可哀想だ」という美辞麗句だ。
 大抵は大人が子供に使う言葉だと思っていた。

 可哀想に。あんなことしちゃうなんてね。
 お子さんは気の毒よね、何も悪くないのにね、可哀想に。でも……。

 何も耳に入らなかった、あの瞬間。

「やっぱり、旨いもん食って、人が笑ってくれんのが一番いいよな」

 父親の笑顔すらも、今はもうなんとも思えない、忘れかけたもので。

「……ふふ、」

 こうちゃんのノート。
 熱でテンションがおかしいのだろうか。腹の底がくつくつとする。布団を頭まで被って笑った。

 でも、何かの色々がない交ぜになり、ぐっと心臓を掴まれ、あぁ、だからだろうな、痺れて涙が出てくる。

 誰にも気付かれたくないなぁと、苦しくなる密閉された布団の中で、気付けば眠ってしまっていた。

「葵さん?」

 矢幡さんの声と、布団を少し剥がれた感触。
 
「電気を点けますね」
「…はい、」

 電気が点いて気が付いた。もう暗い、夜だ。多分、養父は帰宅しているだろう。

「………」

 起き上がる葵を見た矢幡さんは少し強めに目尻を拭い、「やはり少し上がってきましたね」と、体温計を渡してくる。

 起きた瞬間に体温なんて、体感している。熱い。案の定38.0°と高い摂氏。
 彼女はサービングカートで食事と寝起き用の炭酸を運び、「お夕飯です」と言った。

「…はい」
「…ご主人様が生姜がいいだろうと言ったのですが、コーラもありますし…」

 先にコーラを渡してくれたので、葵は息を止めコーラを一度一口飲んだ。

 本来、あまり炭酸は好きではない。

 しかし先日、矢幡さんに付き添われて行った掛かり付けの病院の薬剤師に、「寝起きの眩暈の応急処置としては、ブドウ糖、炭酸なんかが特にいいです。刺激もありすぐに脳に作用します」と助言をもらったのだ。

 コップのコーラを飲み干すと、彼女は粥にいくつかのサプリや薬を混ぜ、「熱いですから」と、ふーふーしてくれたけど、流石に「大丈夫です」と袖を伸ばしてお椀を受け取り、自分で食べた。

 コーラのパチパチで薄い味付けがいまいちわからないのも幸いした。

 葵が粥を食べている最中、「氷枕を」と矢幡さんが心配そうに世話を焼いてくれたのが少し申し訳なくなり、「…思ったより、大丈夫そうです」と一応笑っておく。

「多分、頭から布団を被ってしまったので、体温が高くなったのだと思います」

 …まぁまさか、言えないだろう。

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