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 蝦夷へ向かうまでの道中は、悪天候に見舞われました。我々の勝敗を読むような、勝手ながらそう思わされる、そんな天気でした。

 榎本氏とあの御方はどうにも、戦論が合わない、というよりも榎本様は少し、勤皇だとか倒幕にある意味近い思想の持ち主でした。
蝦夷共和国えぞきょうわこく
が出来、榎本氏らが喜び勇んでいる時も、まだ、まだ、とあの御方は緊張を外しませんでした。

 何故、あの御方が会津に近藤局長を葬ったのか、はたまた負け戦、最早函館に追いやられた心境にも関わらず戦を続けたのか、これは究極ですので私も正直、彼の気持ちなどは憶測の域を出ないものなのです。
 恐らくは会津への忠誠、というよりも、彼の武士道というものだったのだろうと、私は勝手ながらそう思っております。

 確かに、私も安富も、彼らの京での苦労、苦難は見ておりません。
 彼らは会津の松平容保様にその命を受け、新撰組を建設した、これだけは当たり前ながら承知しております。

 会津は確かに会津若松の戦で降参しました。
 こうなってしまえば果たして何を持って戦い、鞘から抜いた刀を納めるのだろうかと、私のような末端には悩むこともありました。

 しかし彼は間違いなく動じず、最後まで行こうという決意があったのです。

 榎本氏の、蝦夷占拠の案に彼は苦笑をしておりました。
 確かに榎本氏かて、最後の幕臣としてそれはあったのでしょう。だからこそ不満はどうあれ彼は共に幕府の志士として最期の地へ赴いたのだと思います。

 …私は、と申せばひとえに、近藤局長と土方様にお仕えしよう、その思いで突き進んだのです。
 恐らく彼も、私如きですがそれに近い闘志だったのだと思います。彼は彼で私なぞより遥かに無念やらを抱えて最後に挑んだ。ですから新国を作ろうという榎本氏の考えに賛同できない部分があって然るべきです。

いや…。

 もう少し私の本音を話せば、ですけど。
 彼は最早、最後は最期を、刀を折る場所まで行きたいと、そう願ったのではないか、少し、そんな気すら…想像し得ます。

 再三不謹慎を貴方様に申し上げる私をお許し頂きたい。本音を話せというならば、私にはそれしかお話が出来ません。

 彼はそれから箱館市中取締、陸海軍裁判局頭取などを函館政府では努めました。
 しかしやはり、それほど喜び勇むでもない。そんな方でした。

 年初めの頃はそうして蝦夷の地の警護やらに尽力を致しました。
 最早榎本武揚氏はそういう方でした。一つ国を占拠した。これのみで、恐らくどこかで彼は榎本氏を見限っていたように感じました。

「浮かれてやがるな、幽閉のようなもんだろ」

 と彼が苦言を漏らすこともありました。
 確かに、西から最北端まで、敗退して来たことに変わりはない。私共も榎本氏とは少し溝があったように思いました。

 蝦夷という国は、春先、冬桜がとても綺麗な地でした。
 しかしいつ新政府軍が来るか、その緊張は多いに隊士の中にありました。平和とはまだまだ程遠く、しかし隊もそればかりではありません。

 彼の最期を振り返れば、本当に穏やかなもので、しかし口数は、元々多くはありませんでしたが、更に減り、思い返せばあれも悟りだろうと考えます。

 気は抜きませんでしたが、初戦よりは遥かに、彼は隊の元へ近付く上官となっておりました。気張り過ぎては皆に声を掛け、酒を少々振る舞うのです。

 この頃の私の決心としては、安富ともよく話しましたが、もう、何があっても彼にお仕えしようと思っておりました。

 何処へ行ったっていいのです。彼が例え、あり得ないので例え話ですが、寝返って新政府に就いたところで…と、阿呆な話をして申し訳ありませんが、例えそんなあり得ないことがあれから起きたと仮定しても、私も安富も彼には着いて行こうと。
 恐らくそこには彼の武士道があり、私達の武士道は彼でしたから。

 時折彼は函館で申しておりました。桜を見ても…雪を見ても。

「見せたかったなぁ」

 と。そして「元気にやってるかなぁ」と続けるのです。
 彼は誰、とは言いませんでしたが、それだけで充分、彼の中には私がお仕えしていた近藤勇局長がずっといるのだと。だから私はこの人に着いていかねば武士道ではないと、そう思っていたのです。

 3月、桜の蕾がまだ咲かないころ。
 明治の新政府軍がついに、蝦夷へ上陸することとなり、これが函館戦争の始まりでした。

 …しかし、拝借しても、宜しいでしょうか。

早き瀬に 力足らぬか 下り鮎

 これは果たして、いつ書いたのだろう。とても、らしい。
 けどもいつからこれを彼は抱いていたのか、今更考えてしまえば私には、何も申せず、ただただ遣えぬ部下だったと、悔やまれてなりません。

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