伍拾肆 宵越しの金くらい持て
普段は家で晩酌をするのだが、趣向を変えて今日は外で飲んでみようと思い、昴はひとり家を出た。今日はボウヤが博士の家に泊ると言っていたし、恐らく大丈夫だろう。そんなことを考えながら夜の町を歩く。ひっそりとした雰囲気だ。太陽が月になるだけで町の色はがらりと変わる。
家からそう遠くない場所に見つけた適当なバーに足を踏み入れる。裏通りから階段を下ったそこは人目につかないためか、あまり賑わってはいないようだ。テーブル席に二組、カウンター席の端の方にひとり。マスターらしき男もいるにはいるが、積極的に話しかけてくるようなタイプでもなさそうである。
これは静かに飲めそうだと適当にカウンター席に座って注文を済ませる。程なくしてカウンターに注文の品――オールド・グランダッドのロックが差し出された。ひとこと礼を言ってからグラスに口を付ける。悪くはない。
もう一口とグラスに口を付けたところでカロン、と特徴的な音がした。
「よう、マスター」
「いらっしゃいませ」
マスターに挨拶をして、ひとりの男が店にやってきたようだ。無口そうなマスターといくつか言葉を交わすところからするに、この店の常連と言ったところだろう。慣れたようにカロンと木がぶつかる特徴的な足音――どうやら男は下駄を履いているらしい――を響かせて店の中を歩き、カウンター席に腰かける。昴からふた席離れたあたりの場所だ。マスターと会話に夢中な男を他所に、昴はちらりと男の姿を窺った。
その男は端的に言って風変わりな格好をしていた。
腰まで伸びた薄灰色の蓬髪は後ろでゆるく一括り。派手な模様で年季の入ったくたびれた着流しに、黒いストールを首元に巻き付け、足元には駒下駄を履いている。外見は多少整っている方で、年齢は恐らく昴よりもひとまわり上……40代後半から50代と言ったところだろう。純日本人かと思えばその瞳は金色だ。どこかしら海外の血が混じっているのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふと男と目が合った。男はつり上がり気味の目をきゅっと見開いて、何か新しいものを見つけたような顔をする。
「ん? 兄ちゃん見かけねェ顔だな」
「先ほど来られたんですよ。初めていらっしゃったそうで」
「ほほう、なるほどな」
何やらにやりと笑うと、その男はずずいとこちらに近寄ってくる。そしてすぐ隣の席に腰を下ろした。面倒な気配がするなと思いつつも昴は何も言わずにいる。男はゆるりと首を傾げるようにして微笑んだ。
「どうだい? この店は」
「とてもいいところですね。雰囲気も、品ぞろえも」
「へえ……だとよマスター、よかったな!」
男は気さくな様子でマスターに話しかける。マスターはありがとうございますと静かにお礼を言った。
これだけで終わるかと思いきや、男は昴の隣に腰かけたままマスターに注文した。頼んだのは恐らく日本酒だろうが、聞いたことのない銘柄である。用意されたグラスに並々と注がれた液体は透明で、男は「これこれ!」と言いながら嬉しそうにグラスに口を付けた。
「この店に来たらこれだよなァ」
満足げに微笑みながらグラスを傾ける。随分と美味そうに酒を飲む男だと昴は素直に思った。
なんとなくそのまま黙って飲むのも気まずい気がして、昴は適当な話題を見つけて男と会話を試みる。
「それにしても珍しいですね。着物とは」
「おーどうだい、イカスだろ? 今となっちゃすっかり珍しがられるばっかりだが、昔はこういうのが庶民の普段着だったんだぜ」
ま、兄ちゃんには想像できねえよな。なんて笑いながら男はグラスを傾ける。その顔は来たばかりだというのにもう既にほんのりと赤く染まっていた。マスターにつまみを注文する男を他所に、昴は小さくつぶやく。
「昔……」
意味深なことを言う男だと思った。酔っ払いは総じて訳の分からないことをいうものだが、この男に関しては何故だか妙に引っかかる。見た目でしか判断できないが、別に男の歳ならばそんな発言いちいち気にするほどでも無いだろうに。普段から人を疑う職についてしまった、いわゆる職業病のようなものなのかもしれない。
ひとり考えている昴の気持ちなど露知らず、男は思い出したかのように尋ねる。
「おっと忘れてた。俺は凩ってんだ。兄ちゃんはなんてんだ?」
「昴です。沖矢昴」
「昴……ってああ! 朔の知り合いの!」
男――凩は目を丸くしながら嬉しそうに昴を指さした。なんだぁお前だったのか、とつぶやきながら凩はひとり合点がいったように納得しているが、昴はそれどころではない。
「朔さんを知っているのですか?」
「知ってるも何も、父親だよ。あいつの」
「!」
昴は表情には出さないものの小さく驚いていた。なんと、ここのところ気にかけている彼の父親だったとは。なんたる偶然だろうか。そう言われてから見ると、なんだか面影があるような無いような……。
「そーかそーか、なるほどねぇ」
前の店である程度飲んできたのか、もう既にほろ酔い状態の凩はといえば、ひとりでブツブツとつぶやきながらうんうんと頷いている。その姿を見て昴は密かに頭を巡らせていた。
もしこの男が言った朔の父親だというのが事実だとすれば、彼から朔についてのなんらかの情報が得られるのではないだろうか。朔は彼から伝え聞くに、卓越した推理力を保持している上に何らかの組織に属しているらしい。その組織を明かすことはできないが、こちらの味方であることは事実なのだと。
「(この男ならば、朔について何かを知っているかもしれない)」
何せ肉親だ。すべてとは言わないまでも、こちらの知りえない何らかの事情を把握していてもおかしくはない。ここでこうして出会った以上、その可能性にかけるのも悪くはないだろう。
すると、ずっと黙り込んでいた昴の顔を覗き込みながら凩はその金色の瞳を細めた。
「あららー? あんちゃん、なんだか知りたそうな顔してんなあ」
「……わかりますか?」
おどけたように笑ってみせる。それを見た凩は咎めることもせず、にたりと悪戯に微笑むばかりだった。
「んじゃ俺より飲まねえとなぁ」
「手厳しいですね」
昴は静かに言ってグラスを手に取った。
***
「や〜あんちゃん全然酔わねーなぁ」
「いえいえ、普通ですよ。はいどうぞ」
「おう気が利くなァ……あいつもこのくらい気が利いたらいいんだがよ」
「ウック、いーや効くねえ……にしてもあんちゃんつえーな。ひょっとしたら朔よりつえーんじゃないかぁ?」
「朔くんもお酒強いんですか?」
「ああ、あいつはザルよザル。飲み比べで負けた事ねーらしいし、酔ってるとこ見た事ねーしなァ」
「それは手強そうだ。それはそうとグラス空いてますね。はいどうぞ」
「おー」
「まらまらおひえらんねーらあ」
「(もうほとんど呂律が回っていない……まだ3杯と少しだぞ?)凩さん、お水を」
「あぁ゛? まーだのめるってんだよ! おかあり!!」
「やれやれ……」
***
あれからほんの1時間ほど経ったころ。
「っとによォ……ウック、あいつじぇんじぇん『おとーさん』ってよんでくれらくてよォォ……!!」
「はあ……」
昴は完全に困惑していた。
店内にはもう昴と凩しか客はおらず、カウンターには1/3ほどに減った日本酒の瓶が置いてある。……そう、大量に飲んでいるかと思いきや、まだ1本も空になっていないのだ。
正直昴に対してあのような物言いをしてきた時点で相当ザルなのかと思ったのだが、実際はその真逆。グラス一杯でほろ酔い状態になり、進めば進むほどわかりやすく凩の舌はもつれていった。情報を聞き出すために飲ませたのに予想以上のペースで酔うものだから、正直お手上げである。こんなつもりでは、と思っても後の祭りだ。
「むかぁしのちっひゃーいこりょはさぁ、そりゃーそりゃーもう、かーいかったのになァ……そえがさぁ、あーなっひまってさぁ……おれはかなしーわけよぉ、わかるぅ!?」
「ええ……」
しかも絡み酒である。面倒な事この上ない。
昴はため息交じりに相槌を打つが、凩には聞こえていないだろう。カウンターに頬をつけながらグズグズと鼻を鳴らしている。
「なんにさぁ……はんこーきだぁよ、じゅーっとしゃあ、おえはしゃみしーってろに……うう……ヒック」
「……」
もはや呂律が回っていないどころじゃないだろう。半分以上何を言っているのかわからないが、恐らく朔のことだろうと想像する。先ほどから彼は朔についての話しかしていないから。
にしても、ここまで前後不覚になっているにも関わらずグラスを煽るのはもはや笑えてくるほどだった。少し前からさりげなく中身が水に変わっているのに気づいていないほどには酔っているくせに、その手は止まらないらしい。
「あんひゃんが……おえのむしゅこらったらにゃぁ……」
「……」
しみじみとしながらつぶやき、それきり静かになってしまった。どうやら眠ってしまったらしい。はあ、と昴はわかりやすくため息をついた。
「凩さん、起きてください」
「んん〜」
「ここで寝たら店の迷惑ですよ」
「んん……」
だが凩は唸るばかりで全く起きる気配が見られなかった。……これは流石に、彼の大好きな息子に連絡をするしかなさそうだ。仕方なく昴は携帯を取り出し、慣れたように番号を呼び出す。仕事中かとも思ったが、意外とすぐに出た。
『はいもしもし』
「もしもし? 朔くん今大丈夫ですか」
『え? まあ、大丈夫スけど……どうかしました?』
「実はバーで君の父親と会いまして」
『は? あいつと!?』
「はい。それで色々あって、彼が潰れてしまったんです」
『うわー……ほんっとすみません! あいつ、昴さんにまで迷惑かけてんのか……マジどうしようもねえな』
ため息交じりに朔が言う。普段よりも口調が荒いが、それが凩に対するいつも通りの対応なのだろうと昴は思った。
『とりあえず俺今からそいつ回収しに行きますんで、それまでお願いしていいスか?』
「構いませんよ」
『ほんっとすみません!! あ、金は多分あいつの懐の中に金目のものがあると思うんで、それで適当に支払っといてください』
「わかりました」
そう言いながら昴は凩の着物の懐を探る。すやすやと眠っているところで申し訳ない気分だったが、朔に言われている以上仕方がない。
『なんなら有り金全部貰っていいですよ。迷惑料も込みってことで』
「いえ、それは流石に……」
そこでふと昴は手を止めた。
「朔くん、彼何も持ってませんよ」
『え?』
「財布も何も持っていません。あるのは数枚の……植物の葉です」
昴は信じられない思いでその葉を見た。青々としたそれは確かにどこからどう見てもただの葉にしか見えない。だがどうしてこの男がこんなものを?
すると朔は盛大な溜息をついた。
『あいつ……起きたら一発ぶん殴ろう』
ぼそりとつぶやかれた言葉は腹の底から怒りに満ちている。思わずぞくりと背中に冷たいものが走る心地がするほどだった。
『……一先ず俺今からそっち行きますんで、店の名前と住所聞いていいスか?』
「は、はい」
そこで店の名前を教えると、すぐに行きますと言って電話は切れてしまった。残された凩はむにゃむにゃと幸せそうに眠っている。
「(なかなか手厳しいな……)」
青々とした葉を指先で摘まみながら昴はつぶやいた。