#01
早く目が覚めないかと思っている
快晴の鮮やかな青天井。
教室の窓が無作為に切り取ったそれを、俺はぼんやりと頬杖をつきながら見ていた。
そんな窓の向こうの景色とは対照的に、俺の居るこちら側では無機質な数字が本を埋める、数学の時間が繰り広げられている。退屈で退屈で仕方が無いこの時間はいつも、俺はこうして窓の向こうの空を見ていた。
まあ、それがどうしたって話だな。すまん、特に意味はない。
「こんのバ快斗! 待ちなさい‼」
「待てと言われて誰が待つかよ!」
そんな退屈な教室では今日も、あのふたりがぎゃあぎゃあと大声を上げて騒ぎながら走り回っている。おそらく全盛期の蝉にも負けないであろうその声は、容赦なく俺の鼓膜をぐさぐさと突き刺していた。
……というか、今は一応授業中のはずなんだけどな。相変わらず元気な奴らだ。俺にも少しでいいからその元気を分けて欲しい。
当事者のふたり以外のクラスメイトはといえば、面白そうにやんややんやと囃し立てながら彼らの攻防を見ている。このクラスのもはや名物ともいえるそれに、ツッコむ者は誰も居ないようだ。
「若いなあ……」
ぼそりと呟いた俺の独り言は、誰にも聞かれることも無く宙に消えた。
2度目の高校生活をここ、江古田の町で始めてから早1年と少し。俺は別に1度目と変わらないような灰色の日々を過ごしていた。
2度目、という言葉に引っ掛かりを覚えた人も多いだろう。
……そう、文字通り2度目なのだ。
少しばかりこれまでの俺の話をしよう。
空閑悠介という名前でこの世に生を受けた俺は、それから特筆することも無いくらい平凡に順調に年を重ね、独身サラリーマンというこれまた平凡な肩書を得て、平凡で変わり映えのない日々を過ごしていた。
身長だけは並より多少高いが、肝心の顔立ちは普通。独身ではあるが勿論恋人は無し。じゃあ仕事が恋人かと言われれば、そこまでのめりこんでいたわけでもない。趣味もまあ、特に無し。向上心も何もない、ただ日々をそれなりに生きるだけのつまらない男になっていた。
そんな平凡を絵に描いたような俺に、ある日突飛な出来事が訪れる。
1年ほど前。色々なことが重なってズルズルと仕事が長引いてしまい、普段ならすっかり眠っているであろう時間に俺は帰宅した。当然家は真っ暗で、同居している家族は全員眠りについている。
「風呂……は、明日の朝でいいか……」
疲れているせいか全てが面倒で仕方がなかった。フラフラになりながらもなんとか這うようにして自身の部屋にたどり着き、シャツもネクタイももそのままにベッドへ倒れこむ。そして1秒も経たないうちに意識を飛ばした。
どれぐらい経っただろう。ふと、瞼越しに朝日を感じて意識が浮上する。ああ、もう朝か。全然疲れ取れないな……そう思いながら、瞼を持ち上げる。
持ち上げて、目を疑った。
――そこは、俺の部屋ではなかったのだ。
俺の部屋ではない、っていうのは誤解を招くな。正確には、"今の"俺の部屋ではない、と言った方が正しいか。
というのも、ここは10年近く前……それこそ、俺が高校生くらいの時の部屋にそっくりの場所だったのだ。朝日の差し込む窓の位置やら、家具の配置やら、机に積まれている教科書の種類まで瓜二つ。唯一の違和感は、壁にかけられていた学ランぐらいのものだろう。俺の通っていた高校はブレザーだったから、ここに学ランがあるわけがない。
とにかく、思わず懐かしさを覚えてしまうくらいには正確に、俺の昔の部屋を再現していた。俺は思わず呆然とつぶやく。
「ここは……?」
そして発した俺自身の声に違和感を覚え、反射的にぱっと言葉を途切れさせる。今の声、少し幼くなかったか? 無意識のうちにそっと喉元に触れる。そこで自身が今着ているのが部屋着であることに気付いた。スーツを着たままベッドに倒れ込んだはずなのに、である。
少しずつだが確実に違和感が重なっていく。その過程で俺はある仮説を思い付いた。それを確かめるべく、さっとベッドから降りて部屋に置いてあった鏡を確認する。
するとそこには高校生くらいの年齢の自分の姿が映っていた。
それを見た俺の頭には驚きよりも、『やっぱりそうか』という感想が真っ先に浮かんだ。そしてこれを確かめたことによって、俺は改めて仮説が立証されたことを確信する。
……これは夢だ。
仕事に疲れた俺が見る、しょうもない夢なのだ。
そう決めつけたところで、俺は再びベッドにごろりと寝転がる。スプリングが沈む音や感触まで妙にリアルだ。これが俗に言う明晰夢ってやつなんだろうか。こう、意識のある状態で見る夢を見るのなんて初めてだからよくわからないけど。明晰夢から覚めるにはどうすればいいんだったかな。確か随分前にネット記事で見たような気が――
――そう思った次の瞬間、俺は元の自分の部屋に居た。
何の前触れもなく部屋が切り替わったものだから、俺はすっかり面食らってしまった。慌てて鏡を見ると、すっかり疲れ切った大人の俺が間抜けな顔でこちらを見ている。身に着けているスーツはしわだらけですっかりくたびれていた。程なくして、携帯のアラームが起床時刻を知らせるために鳴り始める。
「不思議な夢だったな」
アラームを止めながらつぶやく。そして俺はシャワーを浴びるべくベッドから起き上がった。
それからというもの、俺は頻繁にあの妙にリアリティのある夢を見るようになった。見るのは決まって、疲れて帰ってきた日の夜。初めのうちはあまりこの夢についての知識を持っていなかったが、何度も繰り返すうちにこの夢について幾つかのことを知った。
まず1つ目、『夢の中の世界は俺の過去の世界ではないこと』。
姿かたち、名前は高校時代の俺と瓜二つ……もしくは同じだが、住んでる町や通っている高校、友人関係とか家族構成なんかは全くと言っていいほど別物だった。俺の制服がブレザーでなく学ランだったのもその証拠のひとつと言えるだろう。
過去と全く同じ、全く違う、ならまだわかる。だが何故微妙に変える必要があったのだろう。そんな疑問を持っていても、夢を見ているのが俺なのだから俺の頭に聞くしかない。無意味な自問自答。どう頑張っても答えが出ないのは明白だ。
次に2つ目、『時間の流れが夢の中と現実で必ずしも同じだというわけではないこと』。
なんとも不思議な話だが、俺が起きている間にもそちらの世界の時間は確かに進んでいるらしい。ただ、夢の世界の時間と現実世界の時間はあまり一致していなかった。数日ぶりに夢を見ても、夢の中の時間は1時間も経っていない……なんてこともしばしばあったから、これは確実といっていいだろう。
逆もまたしかり。一度夢の中でかなり長い時間を過ごしたことがあったのだが、慌てて飛び起きた時にはいつも通りの起床時刻だった。これに関してはまあ、都合がいいというかなんというか。
そして3つ目、『ここが漫画の世界であること』。
これに気付いたのは随分最近だ。現実世界に存在する俺の実の妹(夢の中ではいないことになっているが)は俺と違って実に多趣味……要するにオタクで、よく嬉々として好きなことについて俺に語っている。
そんな妹がハマっている漫画のひとつ。それが、俺の見る夢の世界とよく似ているのだ。タイトルは『まじっく快斗』。『名探偵コナン』という漫画に出てくるキャラクター、怪盗キッドを主役にした作品らしい。らしい、というのは俺自身読んだことが無いからだ。似てると気づいたのも金ローで興奮していた妹の姿を見ていた夜だったし。
何故読んだことも無い漫画の世界に……と思ったこともあったが、所詮夢だし。聞き流していた妹の話が知らないうちに耳に残ってて―とか、そんなこともあるだろう。
とにかく、俺はここ1年ほど、夢と現実を行ったり来たりしながら生活していた。……それだけ聞くとなんだか頭の病気を患っているヤバい奴のようにも聞こえるが、当の本人である俺はいたって真剣だ。
ちなみにこの奇妙な夢の話は誰にも話していない。正直に言ったところでどうせ誰にも信じてもらえないだろう。『ついに仕事の疲れが頭に来たか』と憐れんだ視線を送られるのは目に見えている。それだけは避けたい。流石に。
それに……実は俺自身、この夢の世界を多少なりとも気に入ってしまっていたのだ。
すっかり記憶の薄れてしまった高校時代を再体験するのは懐かしくて新鮮というか、何とも言い表せない不思議な心地がして。それが仕事で疲れ切った俺のいい癒しとなっていたのだ。別に特別何かを頑張るでもない、まるで透明人間みたいな高校生活……という体の休息。こういうのが社会で荒んだ現代人には必要だったんだなあ。なんて思ってみたりして。
そんな場所が無くなるのは、俺としても困るのだ。ちょっとだけ。
まあだからといって、ここのところ目を覚ますことが出来ないのは流石に困るけど。
以前はある程度自分の好きなタイミングで目を覚ますことが出来たのだが、ここ最近それが出来なくなってしまったのだ。
実質夢の中に閉じ込められた……といった感じなのだが、別に俺はそこまで焦りを感じていなかった。今までの様子からして、どうせ現実世界ではほとんど時間なんて経っちゃいない。少し長めの休暇もどきが出来たと思えば気が楽だった。
所詮これは、俺が見ている夢なんだ。どうせそのうち自然に目が覚めるだろうと――
「じゃあこの問題を、空閑悠介! 解いてみなさい」
不意に名前を呼ばれて、俺は咄嗟に我に返る。
……そういえば今は数学の授業中だった。俺がひっそりと過去回想している間に例の騒がしいふたりは、やいやい言いながら別の場所に行ってしまったようだ。現に空の机がふたつあるし。すっかり授業モードに戻った生徒たちの視線がさっとこちらに向く。
うーん、しまったなあ。
俺はため息を噛み殺しながら言った。
「……すみません。問題がわかりません」
***
夜風が俺の身体を掠め、後方へ流れていく。
休日ということもあってか車通りもそれなりにある道路で、俺はまるで鼻歌でも歌いたい気分だった。
あれからしばらく経ち、世間は夏休みシーズンへ突入した。ごたぶに漏れず、俺の通う江古田高校も夏休みの真っ最中である。だが現実世界の俺は一向に目を覚まさないままであった。夢の中から出られなくなって、もう3ヶ月近くになる。1年近く夢と現実を行ったり来たりしている俺でも、ここまで長いのは初めてだった。現実世界で時間はほとんど経っていないだろうと分かっていても、これは少し不安になる。
というわけで、そんな暗い気持ちを一掃すべく俺は大阪までツーリングに来ていた。
現実世界の空閑悠介は無趣味のつまらない人間だが、この夢の世界での空閑悠介はバイクでのツーリングが趣味らしい。それを知ったのは夢を見始めて数回目のことだった。家の駐車場に同じ車種のバイクがとめてあったことは知っていたが、部屋の中からバイク雑誌が数冊出てきてツーリングが趣味だと知ったのである。
バイクとそのための二輪免許を持っているのは夢も現実も同じだが、俺はあくまで移動手段としか考えておらず趣味にしようなんて思っていなかった。そこで興味を持った俺は気分転換と暇つぶしを兼ねて、こっちの悠介と同じようにツーリングに手を出した。
結果、ハマった。
自分の思うがままにバイクで走ることがこんなに面白いことだとは思わなかった。今まで手を出してこなかったのが不思議なくらいに俺はすっかり夢中になってしまい、休みのたびにどこかしらに繰り出している。もし目が覚めたら現実世界でも趣味にしようと画策中だ。無事に目を覚ませたらの話だがな。……やめよう。自分で言ってて怖くなってきた。
だがツーリングにハマった俺でも、今回の東京から大阪までの2泊3日にもおよぶ長距離ツーリングは流石に初体験だった。正直不安しかなかったが、なんとか大阪に到着できたようでなによりである。正直今は辿り着いたという達成感でいっぱいだが、往復という計画を遂行するためにはあと数時間で東京への帰路に就かねばならない。それまで少しばかり大阪を堪能しようと、俺は修学旅行以来訪れていなかった大阪の街へと繰り出した。
事前に地図を確認してからバイクを走らせる。折角だしどこか有名な観光地にでも行こうかと思ったが、道がえらく混んでいたため断念した。異常な込み具合だったため何かイベントでもやっているのかと思い調べてみると、どうやら変電所で爆発があったらしい。それで街全体が停電し、パニックになっていたのだとか。なるほど、どうりで街全体が暗いわけだ。
「爆発なんて随分物騒だな……」
そうつぶやきながら携帯をしまい、俺は再びバイクを走らせた。人と車でごった返す道を、最大限注意を払いつつするすると抜けていく。そうしている間にもあちこちで事故やトラブルが起こっているようだ。あーやだやだ。俺そういういざこざとかすごい苦手なんだよね。
そうして人ごみを避けて進んでいるうちに、すっかり海の方に出てしまったようだ。停電も相まってかなり暗いが、月が出ているためかさほど気にならなかった。むしろ風情があっていいんじゃないかと思うくらいである。人気がほとんど無く静かな港に、俺の運転するバイクのエンジン音だけが響いていた。ヘルメット越しでもわかるほどの潮の香りが俺の鼻孔をくすぐる。暗がりを俺のヘッドライトが真っすぐに照らしていた。
このあたりで休憩がてら水分補給でもするか。そう思った俺は、適当なところにバイクを止め、ヘルメットを外した。うっすらかいていた汗を軽く袖で拭う。そしてふと空を見上げた。ああやっぱり今日は町が暗いせいか、月が一段と綺麗に見えるな――
――次の瞬間、
目の前の海に、真っ白いものが重力に逆らうことなく降ってきた。
なんで、お前がここに居るんだよ。