浅い夢を見ていた
10月某日。
厚い雲が空を覆い、今にも泣き出してしまいそうな昼下がりに、人気のない住宅街をふたりの女性が歩いていた。片方はすらりと身長の高い黒髪ショートヘアの女性。もう片方は少し小柄で黒目がちな目元が特徴的なポニーテールの女性である。ポニーテールの彼女は手帳に視線を落としながら、隣の女性に向かって静かに言った。
「目ぼしい情報は得られませんでしたね」
「そうね。有力な手掛かりに繋がるかと思ったのだけれど、期待外れだったわ」
ショートヘアの女性は困ったようにちょこっと眉を下げて笑う。ポニーテールの女性はあまり表情を変えることなく、ですね、と言った。
ふたりは住宅街を歩きながら、ああだこうだと互いの意見を交換しているようだ。被害者、アリバイ、凶器、犯行現場……飛び交う単語からするに、ふたりは刑事なのだろう。その証拠に、ポニーテールの女性が持っている手帳には桜の紋章が輝いていた。
当初期待していたような情報は得られなかったしこれからどうしようか、という話題をショートカットの女性が出した途端、天気が崩れる前触れである湿度の高い独特な風がふたりの傍を通り抜ける。
すると、何の前触れもなくポニーテールの彼女は黙って空を見上げた。
「最上さん?」
どうかしたのと隣の女性が尋ねたその瞬間、空は大粒の涙を流し始める。慌ててふたりは近くに止めていた真っ赤なスポーツカーの中に避難した。ショートカットの女性が運転席、最上と呼ばれたもうひとりの女性が助手席に乗り込む。ドアをばたんと閉めたところで、運転席の女性がはあ、と大きなため息をついた。
「なんとか間一髪……ってところかしら」
「です、かね」
車を叩きつける大粒の水音は段々と強さを増していく。それを聞きながらふたりは水を吸って重くなったジャケットを脱ぎ、鞄からハンカチを取り出して各々身体を拭い始めた。
降り始めだったとはいえその勢いは恐ろしいもので、5分もかからず車内に避難したふたりでも髪や肩といった上半身を中心にぐっしょりと濡れてしまっていた。その水滴はとてもじゃないが、ハンカチごときで拭いきれるような生易しいものではない。すっかり水を吸わなくなったハンカチを髪の上で滑らせている最上を見て、運転席の彼女がダッシュボードから清潔そうな真っ白いタオルを取り出して渡す。差し出されたタオルと運転席の彼女の間を数度、最上の視線が往復する。
「いいんですか」
「ええ。タオルなら私の分もあるから、遠慮しないで使って」
「……ありがとうございます、佐藤さん」
最上は小さく運転席の彼女――佐藤に礼を言って、素直にタオルを受け取る。佐藤ももう1枚のタオルを取り出して、自身の身体を拭き始めた。
ある程度水滴を拭ったところで佐藤はタオルを一旦後部座席に置き、車のエンジンを始動させる。
「ずっとここにいるわけにもいかないし……とりあえず、一度警視庁に戻りましょうか」
「わかりました」
しっとりと湿ったタオルを頭に乗せたまま、最上は静かに肯定の旨を返した。
***
車が動き始めてからしばらく。雨脚は弱まる気配を見せない。
激しい雨音、それからワイパーとエンジンの駆動音だけが車内で唯一の音源である。
悪天候のため滞りがちな道路を見つめる佐藤は、それとなく視線を助手席に向けた。助手席に座る最上はその視線に気づいていないようで、マイペースに窓の外に視線を向けている。流れ落ちる水滴をぼうっと追いかけているのか、それとも外の景色を眺めているのか……それを運転席にいる佐藤が判断することは出来ない。
「あ」
「ん?」
ぽつりと、それこそ唐突に最上がつぶやいたのを聞いて、どうしたのかと佐藤は一単語だけで問いかける。すると最上は佐藤の方に顔を向けた。
「煙草、吸ってもいいですか」
「……ここで?」
「はい」
予想外の発言に佐藤は思わず目を丸くする。対する最上は特に表情を変えずに佐藤の方を見つめていた。黒目がちなその瞳に捕えられていた佐藤は呆れたように目を細める。
「駄目よ。この雨じゃ窓も開けられないから煙も臭いもこもっちゃうじゃない」
「……ですよね」
視線を下げ、少ししゅんとした声色で最上はつぶやく。許可が出ると踏んでポケットに手をあてていたが、許可が下りないとわかった途端スッと手を下ろした。そしてまた顔を外に向けてしまう。その様子を見て佐藤は相変わらずだと思いながらくすりと笑った。
佐藤の助手席に座る彼女――最上かざねが警視庁にやって来てからもう半年近く経つ。
最上が強行犯係に配属されてから佐藤は彼女の教育係として任命され、それ以来ほとんど仕事を共にしていた。同じ女性警官ということで何かしら配慮があったのかもしれない。初めて挨拶をされた時はその小柄な身体も相まってどこか頼りないような印象を受けていたが、今となっては全くの真逆である。
彼女は、今まで佐藤が見てきたどの新人警察官よりも物覚えがよく、機転が利き、そして冷静沈着であった。実際、彼女の思い付きのお陰で解決へと繋がった事件は既に両手の指では足りないほどになっている。少し無愛想で我が道を行くようなマイペースぶりと、自身の身の安全を二の次に考えるところが玉に瑕だったが、最上は佐藤の中でとても頼りになる後輩というポジションを獲得していた。
雨音とエンジン音以外は音がしない静かな車内で、わずかにバイブレーションが響く。
佐藤は自身のポケットに入れていた携帯へ意識を向けるが、どうやら自分のものでは無かったらしい。それならばと思っているうちに、最上がポケットから少し古い機種の二つ折りの携帯電話を取り出し、ぱかりと開いた。両手で携帯を包み込むように持ち、ぽちぽちとボタンを押し込んで操作する。
「メール?」
「はい。でもただの迷惑メールでした」
顔を上げずにそう言って、最上は携帯を操作する。たった今来たばかりの迷惑メールを削除しているのだろう。信号が赤になり、車が停止すると佐藤は最上の方へ視線を向けた。そしてふと、あるものに目が留まる。
最上の持つ携帯に繋がったお守りだ。
元々は美しい紫色だったのだろうが、それなりに年季が入っているようで若干色が褪せてしまっている。お守りの表面に金色の文字で印刷されているのはおそらく、『合格祈願』だろうか。これも文字が途切れ途切れになってしまっていた。裏にきっとあるであろう神社や寺の名前にいたっては、すっかり読めなくなっている。繋がっている紐だけが妙に真新しいことから、一度切れたのを新しく取り換えたのだろうと推測できた。
携帯の操作を終えた最上の視線が、自然にお守りに移動する。そして何かを思い出すようにうっとりと目を細めると、優しく右手の指先でそれを撫でた。
表情はほとんど変わらない……それこそ、目を細めただけだというのに、お守りを認識する前と後では彼女のまとう雰囲気ががらりと変わったような心地がする。佐藤は思わず彼女から目が離せなくなってしまっていた。
佐藤が最上の携帯を見たのはこれが初めてで、当然そのお守りを見たのも初めてだった。
そして、そんな最上の表情を見るのも、初めてだったのだ。
佐藤の観察するような視線を感じてか、最上がふいと顔を運転席の方へ向ける。いつも通りの表情だ。
「どうかしましたか」
「ああ、ごめんなさいね。そのお守り随分古そうだなーって思ってただけよ」
ただそれだけ。そう言って胸のあたりで手のひらをひらひらと見せながら弁解する佐藤。それを聞いて最上はふうんとぼんやり相槌を打った。右手でそれとなくお守りに触れる。
「……やっぱり変ですかね。このお守り」
「別に変って訳じゃないけど……」
確実に何か言いたげな、興味を隠しきれない佐藤の瞳が光る。
「そんなになるまで持ち歩いているってことは……とても大切なもの、ってことよね」
もしかして彼氏から貰ったとか?なんて悪戯っぽく笑いながら佐藤は言う。
だがその言葉を口にした瞬間、最上の表情がわずかに強張ったのに、佐藤は気づかなかったようだ。誰にも言わずにずっと隠していた心の柔らかい部分に意図せず触れられてしまったような、そんな表情に。
だが最上も最上である。佐藤がそれ気づくよりも前にその一瞬の表情をすぐにかき消し、またいつもの表情に戻ってしまった。
少し中身が膨らんだお守りにそっと触れながら最上は、佐藤から視線を逸らしてぽつりと言う。
その瞳に何を映しているのかは、誰にもわからなかった。
「……貰ったんです。昔、知り合いから」
――浅い夢を見ていた
膨らんだお守りの中身を知っているのは、彼女ただひとり。